eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-11

運慶展

しばらく前から行こうと思っていたが、腰を悪くしたり、親知らず(しかも下)を抜いたりで、気持ちはあれど体が追い付かず、とはいえなんとか行ってみた。
図版の撮影を六田知弘さんが行ったというので、図録を買うのも楽しみである。
夜間開館の日を選んで、17時過ぎに会場に入ったが、なかなかの込み具合。
どうも、今の自分からすると、人間離れした諸神諸仏像(魁偉すぎて怪異に近い気もする)は、なんだかアニメのフィギュア―のようにも見えてしまって、それよりも無著・世親像や八大童子の矜羯羅童子(こんがらどうじ)のような、たしかにこの人は居たのではないか、と思わせるような実在感のあるものに心がひかれた。

ところで、今道友信先生の本で、心破れたときに鎌倉高徳院に行って大仏様の前に立ったら、ある地点で大仏様と視線が合う場所があったというような話があった。
それを思い出して、無著菩薩像の前に立ってみた。
ちなみに無著像は、そのコーナーに入る前から、そこにいるのが分かるくらいの存在感がある。
無著像は正面から見ると多少左を向いている。そのお顔の正面くらいに立ち、視線の行先を探りながら、多少前後に動いてみると、この場所だろうかという地点があるように思えた。
その人の身長によっても違うだろうし、視線の方向のとらえ方によっても違いはあるだろうが、俺の場合は上に書いたような地点があった。
そこに立って、お顔を見ると(仰ぐと)、無著という人(ではなくて菩薩か)のまなざしに耐えられないような気がして、やはり目をそらしてしまう。そんなことを何度か繰り返しているうちに、こちらも慣れてきてじっと対面できるようになってくる。
そうなると今度は「お前はこれからどうしたいのだ」と問われているような気がしてくる。若干、心が苦しくなってくる。
少し右にずれると、今度は口元に少し笑みがあるようにも見えてくる。
こういうふうにしていると、いくら時間があっても足りない。
無著像に対面したと思ったら、自己に向き合うことになってしまったという話でした。
ちなみに世親像とはそこまで対面できなかった。体力・気力不足か。

重源上人も良かったです。
神鹿、子犬像はうちにほしい。
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池田学を見にいったら腰が抜けた。

というか、正確にはぎっくり腰になったのだが。

最近は、品川のキヤノンギャラリー「篠山紀信 家」を見に行ったり、なかなか忙しい。
それにしても品川はずいぶん変わったな。昔はだだっ広いだけのうら寂しい貨物基地のような印象があるが、それでも今の港南口の人工的なビル街に比べたらましだったな。

それはさておき、高島屋の池田学展に行った。
だいぶ混んでいるらしいので、17時に会場入り。そのあとは国立博物館の運慶展に行くつもりであった(が、やっぱり無理だった)。
入るとかなりの混雑。細密なので、みんな画面を凝視しているので時間がかかる。
おれは近づいたり離れたりして見たいのであるが、あまりの混雑でそれもなかなかできなかった。空いてきたのは18時半以降。それまでに、めぼしい作品には目をつけておいた。
いくつも心にひっかかる作品があったが、2011年の震災前に描かれた「予兆」では、どうしたものか予言かのように津波に飲み込まれていく人の営みが細密に描かれていた。
よく見ると、南無阿弥陀仏と唱えながら空を飛ぶ仏たちがいたり、十字架上のキリストがいたり、街並みが大波に巻き込まれていてどうしても2011年の震災を思い起こしてしまう。
壊れた旅客機が繰り返し出てきているが、911の残像だろうか。
また「誕生」(これは写真撮影OKとされていた)を見ていると、作者は死と崩壊の果てには、それでも花が咲く―せめて咲かせたい(なんかNHKの歌みたいだが)ということのようだが、花の根元には死があるのだな、などと坂口安吾のようなことも思ったりした。
というような話は、実際に作品を見て、それぞれが自分なりに感じとればいいのであって、本題?はここからだ。

何しろ池田作品は極細のペンで微細に描いているので、全体も見たいがデティールも見たい。
「予兆」などは、左下側の波が起こりつつあるところかじっくり見ていると、何十分かかるかわからない。
しかもその間、中腰だったり、腰をかがめたままである。かなりの混雑だから隣の人に触れないように体もねじったりしている。
そんな風に2時間以上、絵を見ていた。
会場を出たのは19時30分になりそうだったから、上野に移動して運慶展に行っても1時間もないので、こちらはあきらめた。

さて、帰宅して、ちょっと腰を下ろして、体をひねったら、キクっという腰の感触があった。
以前ぎっくり腰をやった時と同じである。さっそく初期対応をして(湿布を貼って)、体を楽にして、しばらく休んだ。
どうも中途半端な姿勢で体を動かさないでいたのが良くなかったのではないか。
池田学の作品は、そのくらい心身に影響を及ぼす力は確かにあると思う。
混雑していない会場で、体をのばしながらゆっくり見たいものだ。
それにしても会期が短すぎるんじゃないか。

体育会系が時代遅れになりつつある?わけ

先日、日経関連のwebサイトを見ていたら、会社員向けの人生アドバイスのような記事があった(こういう記事はよく見かける)。
そこでは、自他ともに認める体育会系ということで頑張ってきた後輩がいて、最近元気がない。
先輩にあたる筆者が、「どうしたんだ」と飲みに誘ったら、これまでの仕事のやり方(記事からすると根性主義っぽい)が通用しなくなって、行き詰まりを感じている、とかなんとかそういう記事であった。
→この記事でした。体育会OB社員を襲う早すぎる「定年」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/032500025/060200030/
本当にそんなことがあったのかはしらないが、記事として需要はあるような、つまりある程度、現実としてあり得る話なのだろう。

さて、体育会系の美点はいろいろある。だから就職などでも有利だったという(俺には全く関係なかったが)。
ただ、どうもかつてほど持てはやされていないらしい。なぜか。
体育会系は、スポーツに打ち込んでいる(当たり前)。
スポーツにはルールがある(当然)。
そのルールのなかで最大限努力する(立派です)。

ところが、そのルールにあたるものが社会に確立していない状況になってきた、ということではなかろうか。
例えば、ソニーのウオークマン。音楽を身に着けるという発想と、その枠組みを作ったのは素晴らしい。
しかし、appleはiPodでルールを変えてしまった。
つまり、持ち運ぶのだから音質は落ちてもよい(mp3等)と割り切れば、いろいろな利点が出てくる。
曲単価が安くなる。通信しやすい。小さい筐体にたくさんの曲データが入る。
いわば当初のルールを変えて、違う競技を始めてしまったようなもののように思う。
しかしソニーはオーディオメーカーでもあったので、自ら音質を落とす発想はためらいがあったか?

こういったことが重なると、ルールを大事にするよりは、ルールの逸脱を考えるような発想、態度が求められる。
枠内での努力ではなく、枠自体を再検討する能力(それも頻繁に)。
そうなると、枠内の努力を重視するタイプの発想はやはり行き詰るだろうか。
まじめな人が多いだろうと思うので、気の毒に感じる。
枠にもいろいろあって、仕事関係だけでも日々の人間関係の枠、会社の枠、業務の枠等、自らを取り巻くフレームは重層的になっている。
そのなかで体育会っぽい先輩後輩関係が暑苦しくかんじられるのかもしれない。

俺自身はほんとうはどうでもいいと思っているのだが、かつてF1で日本製マシンが好成績をあげるたびに、また、オリンピックで日本選手が好成績をあげるたびにレギュレーションが変更されたことを思い出す。
いわゆる体育会的なものごとは好きではないが、時代や環境にまじめに向き合ってきた人が割を食うのは、あまりいい気がしない。

平塚市美術館「リアル(写実)のゆくえ」展

こじんまりとしていたが、充実した良い企画展だった。
http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/20162005_00001.html

個人的にみるべきものと思ったのは、
まずは、五姓田義松の母にかかわる3作品。
「五姓田一家之図」では、家族の肖像。
「母勢子像」は、なぜか、写真家・牛腸茂雄の母のポートレイトを思い出した。
http://storage.brisees.com/BK120424_3.jpg の左ページ。
「母勢子像」の後に「老母図」を見ると、胸が絞めつけられる。
この3作品を続けて見られるだけで、ここに来る意味があると思う。

石川寅治「浜辺に立つ少女たち」は、朝日で大西若人記者が書いていたが、植田正治とそのまま重なるような作品だった。

岸田劉生は「壺」が面白い。少し左側から離れ気味にみると、非常に立体感がある。「冬枯れの道路」は、竹橋の近代美術館に似た作品「道路と土手と塀」と比べると、路面の「盛り上がり感」ではちょっと及ばないかも。
というか「道路と土手と塀」は、生で見ると不思議な立体感があって、独特のものだと思うが、遠近感が狂っている気もする。
「壺」の絵は中央左寄りに、壺の曲面に光が当たってハイライトが白く塗られている。
近づきすぎると、そのハイライトの部分がどうしても白い絵の具に見えてくる瞬間がある。
なので、そう見えない距離に離れて見ていると、壺の曲面がよりリアルに感じられてくる。
作品自体は、細密描写というほどのものではないし、なんとなく形にゆがみがあるようにも思えるが、不思議な生々しさがあって、それは「道路と土手と塀」のも通ずるところがある。

小絲源太郎「けしの花」は、これも国立近代美術館に似たような作品があるなと思ったら「惜春賦」という作品で、これも好きである。

思いもかけず長谷川潾二郎の作品もあって、片方のひげが結局描かれなかった「猫」をみて、うれしくなった。

ぐっと、最近に近くなって、犬塚勉「梅雨の晴れ間」はやはり傑作ではないかと思う。http://inzk.net/an/p5/
ちょっと前にテレビ東京「美の巨人たち」でとりあげたばかりだったので、俺も含めて作品前は込み合っていた。
もう一つの「林の方へ」も、じっくり見ていると引き込まれる作品だった。
「梅雨の晴れ間」をある距離から(=筆の刷毛目が絵にとけこむ距離)じっと見ていると、不思議な現実感があらわれてくる。
その現実感は、自分が今からその絵のなかの茂みに向かって歩いていき、右に曲がっていくというような実感である。
というか、今回の写実特集では、写「真」的細密さというよりも、写「実」=実感を写すという意味(そういう意味の言葉でもないようなのだが)で、作品が集められているように思った。
というのは写実主義-リアリズムの定義を見ると「主観を交えず客観的に描写」とある。
しかし実感とは、客観というよりは主観そのものでもある。となると、西欧的写実と、ここにあるような写実とは、どうもかなり方向性が違うのではないか。そんなことを考えたりした。

最後の最後に、水野暁「The Volcano-大地と距離について/浅間山」がデデーンと鎮座ましましていた。
http://saihodo.com/exhibition/2016/mizuno_16.html
そうとうにサイズの大きな作品なのだが、浅間山の大きさ(見たことがないが)がよく感じられるように思った。
その大きさというのは、雄大なものに向かい合うと、近景―中景―遠景のスケール感が狂うような感覚の大きさである。
昔、郷里の霊山という山に向かいあったとき、大きいことは分かるのだが、圧倒されてしまって、どう大きいのか、もうよく分からないという状態になったことを思い出した。
水野暁も故郷の浅間山を描いたそうで、そういうところもなんだか自分に重なるところがあるように思った。

他には高橋由一や高島野十郎のろうそくの灯の絵があったり、見ものはいろいろある。映画監督の伊丹万作(伊丹十三の父)の油絵があったりして驚く。
平塚はちょっと遠いのだが、東京からでも行く価値あると思います。何年か前に見た長谷川潾二郎展も良かったな。
美術館を出たあと、しばらく歩いて高麗山(こまやま)を眺めるのが好きだ。

バベルの塔(ブリューゲル)は、神の怒りがなくても崩れる。

先日、上野の都美術館でブリューゲルの「バベルの塔」(ボイマンス美術館所蔵)を見てきた。
http://babel2017.jp/
藝大でCG化した映像、およびそれを使った拡大模写版バベルの塔も見ごたえがあってよかった。

ところで、このバベルの塔の絵を見ていて気付いたのだが、この塔は、画面右側に河口もしくは港らしきものがあり、かなり水際まで土台部分が迫っている。
また、よく見ると画面下部中央右側に、塔内に入り込む水路らしきものが見える。
こんな水際に巨大な塔を建てたら地盤が軟弱で、じきに不等沈下を起こしそうである。
下部が傾いたら、ピサの斜塔のように全体が傾き、いずれは崩壊しただろう。
※と思ったら、似たようなことを考えた方がおられたのでURLをはります。
https://www.s-thing.co.jp/column/cat333/post_38.html

また、大友克洋が塔の内部(断面図)を描いているが、塔の構造を内部に空間のある円筒形で想定していた。
http://www.asahi.com/articles/ASK4761G7K47UCVL02M.html

塔本来の目的は高さを追求することにあるのだろう。
高さ自体によって、遠方の見張りであるとか、権勢の誇示などができる。
例えば日本の五重塔の内部空間は、使い道があるのだろうか。あまりなさそうな気がする。

しかし、ブリューゲルのバベルの塔の場合、あれだけ巨大な建築物であれば内部空間の活用を考えるかもしれない。現に作品では教会らしきものも描き込まれている(大友克洋)。
もし内部空間を使いたいとなれば、奥の方は日が差さないので照明が必要になるが、電気がない時代なので人工的な照明には限界がある。
となると、内部を空洞にすることにより建物の下や中まで、日が届くようにしそうではある(なんとなくローマのパンテオンの天井の丸窓を連想している)。

ちなみに大友克洋の断面図では、塔の内部に水路が入り込んでいた。大水や嵐のときには水が入り込んで、塔の躯体自体が相当の損傷を受けるだろう。
ということは、神の怒りがなくてもいずれ塔は崩壊する、かのようにブリューゲルは描いたのではないかと思ったりした。


ところで、この作品を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。
というのは、塔の中層辺りをみていると、どうにも立体感と現実感のある描写で、不思議な現実感がある。
その現実感は、額縁の向こう側にも、つまり絵の世界の中にも、こちら側とは違う別の世界が確かに存在しているという印象を持たせるものだ。
たとえて言えば、額縁を窓として、塔のある風景を見ているようなかんじだろうか。
絵であることを知りながらも、しかもあきらかに額縁の向こうにも世界の実在を感じさせるところが傑作のゆえんか。
会期もまだあるので、もう一度見たい気がする。

猫坐禅

家でぼんやりしていると、膝のうえに猫がのってきた。
ちょうど膝を崩しかけたところで、なんだか半跏思惟像のようなポーズであった。
膝のうえに猫がのると、そのまま寝てしまうので(猫が)、人が動くことは許されない。
なので、なんとなくそのまま坐禅のように呼吸を整え、半眼にし、想念を追い払ってみた。
2017030501.jpg


すると、なんということでしょう。
いつもはなかなか無念無想になれないのに、すぐに人猫一如の法悦境があらわれたではありませんか。
猫はもともと下らぬ思惑で生きてはいないので、その力を借りたのかもしれぬ。
禅や瞑想などを日常に取り入れられている方は、たまには膝に猫をのせてみたらいかがでしょうか。

でも、法悦が訪れたかと思ったら、猫はあきたらしく、膝のうえから去っていったのだった。
悟りを得たと思ったら、すぐに手元から零れ落ちてしまう。
諸行無常とはこのことか。

ラスコー洞窟は狭かった(展示的に)。

先日、上野の科学博物館で開催中の「ラスコー洞窟展」へ行ってきた。
http://lascaux2016.jp/

2017021201.jpg

途中で、上野公園内の正岡子規記念球場を通りがかり
 春風や まりを投げたき 草の原
という句を見て、また名前である「昇」から「野球(のぼーる)」という雅号をつけていたこともあって、「正岡野球(まさおか のぼーる)」をひねって「さまおか のぼーる→Summerおか のぼる→夏岡野球(なつおか のぼる)」という自分用の雅号を思いついたが、野球に関心がないことを思い出して不採用とした。使いたい方がおられればご自由にどうぞ。


寄り道はこのくらいにして、久しぶりに科学博物館に入った。
当時の生活を説明するいろいろな発掘物やレプリカがあったわけだが、さて肝心の復元されたラスコー洞窟はどうかというと、案外コンパクトにまとめられていたのだった。
傑作と呼ばれる壁画が実物の洞窟を模した壁面に、原寸大で書かれているのだが、それが8面くらいあったろうか。たしかに見ごたえがあるが、若干もの足りなさもあった。
たしかにそれぞれの壁画には圧倒されるが、圧倒的なほどの量はなかった。
2017021202.jpg

さて、解説のなかに、しばらくぶりに再刊された「身振りと言葉」の著者、ルロア・グーランの言葉があった。
簡単にいうと、動物たちの描かれかたにある種のパターンが出てきていて、それはすでに一種の記号であり、そこから文字まではあまり距離がないということか。
2017021203.jpg

売店方面に出たら、休憩所にこの掲示があった。休憩所では互いに迷惑をかけないようにしましょう、というような内容であったが、どうもこの恐竜がお辞儀しているように見える。
たしかにこの種の掲示物では、ヘルメットをかぶった人がお辞儀をしたりしているが、それと同じ意趣なのだろうか。
ちょっと不思議なかんじではあった。
2017021204.jpg

耳掃除をやめる50の方法 50 ways to quite ear cleaning

タイトルはポール・サイモンの「恋人と別れる50の方法Fifty Ways To Leave Your Lover」をもじっただけで、実際はひとつだけなのだがww

いつのころからか、耳をほじくる癖がついた。
ときには出血してかさぶたができたりしたこともある。
さすがにこれはまずいと思い、やめようと思うが、なかなかやめられない。
調べてみると似たような人が多いようだ。

なぜかと調べてみたら、耳というのは繊細微妙な器官であり、神経が集中しているらしい。そして同様に性器にも神経が集中しているらしい。
さらにこんな話も見つけた。
(以下引用)
耳の穴というのは実は性感帯になっているのではないか、という説があります。
先にも述べたように、外耳道には耳垢腺という名のアポクリン腺があります。アポクリン腺が他にある場所としては腋窩と乳輪などが挙げられます。これらの場所はいずれも人間の性感帯でもあります。同じくアポクリン腺を擁する耳の穴も、性感帯の一種として働き、そこへの刺激は快感となるのではないか、という考えがあるのです。

http://www.3330.jp/cerumen4.htm

そうか、耳掃除が性感帯への刺激と同様であるならば(つまり「耳オナニー」ともいうべきものならば)、こっちにも考えがある。
つまり禁欲すればよいのだ。
ではもっとも直接的に禁欲するにはどうしたらよいか。物理的に不可能にすればよい。
つまり貞操帯を準備すればよい。

しかし、耳用の貞操帯はまず売っていないだろう(が、自信はない、いろんな趣味があるからね)。
で、耳をほじくれないようにするため、ティッシュを小さくちぎって丸めて耳に入れてみた。この上から絆創膏でも張れば完璧だろう。
しかし、そこまでしなくても、なんとなく充足感?がある。安心感もある。落ち着いたような気もする(音が聞こえにくいせいか?)。
これはむしろ貞操帯というよりも、耳タンポンとでもいうべきだろうか。別に名称に悩む必要もないけど。

同じ悩みがある方がいたら、どうしても我慢できないとき、ちょっと試してみてください。
耳とほじりまくりたいという欲望の波がピークを過ぎるくらいまでの時間(数分くらいかも)は我慢できました。

とめどなき老人化と幼児化

しばらく前から文藝春秋(本誌)を開くたびに、「なんでこんなに字が大きいのだろう」と思って、読む気がしなくなっている。
行間が広くなった分も含めると、かつてと比べてページあたりの文章量はそうとうに落ちているだろう。巻頭の随筆など、ずいぶん薄味になった。
最低限のボリュームが確保されないと、書きにくい事柄もあるだろう。主たる読者層が年老いているのだろうが、同時に文章量も落ちて、おつむの具合も落ちているのかもしれぬ。
また、最近できたような新しいヨーカドーに行くと、エスカレーターがちょっと驚くほど遅い。
これも買い物に来る年寄りに合わせているのだろうが、遅すぎて乗り降りのときに毎回戸惑う。
なんだか世の中が怒りっぽいような雰囲気をかんじるが、これも社会が高齢化しているからのようにも思う。
年とってきて分かったが、若い時のようにいつも快調というわけではなくなってくる。だからなんとなく不機嫌になって、いろんなことに対して面白くなくなるんだろう。

一方、先日近所のスーパーで握りずし寿司を買ってみた。
スーパーで出来合いの総菜を買うことなど、最近なかったせいか、なんだか急に買いたくなってしまった。
さて食べようとすると、生姜の小袋のほかに、ワサビの袋もついている。ワサビの追加だろうかと思ったが、ひょっとしてとおもってネタをはがしてもみたら、すべてサビ抜きだった。
スーパーのお寿司にいっても仕方がないのかもしれないが、ワサビまで含めてのお寿司が普通で、さび抜きというのはわざわざ頼むようなもののはずだったのだが、スーパーではむしろそれが基本か。

だからといってこのくらいで世を嘆くこともないのだが、居心地が悪いこともたしかだ。

今年もいろいろありまして

年の暮れで、近所の(とはいえないか)の抜弁天にお参りしてきました。

 去年今年艱難辛苦を抜弁天 
      また来年もお願いします

 駄句ですみません。
では、よいお年を。
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