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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2021-02

もう石灯籠はやめたほうがいい(地震多発地域)

昨日の地震でまた東北南部太平洋側で被害が出た。
さいわい死者は出なかったようなのだが、今回も墓石や石灯籠が倒れた。
昼間で、そばに人がいたら、ただでは済まなかっただろう。
・福島県相馬市中村神社参道
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210214/k10012866461000.html
・宮城県松島瑞鳳殿
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210214/k10012866321000.html
・福島市福島稲荷神社
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210214/k10012866211000.html
とくに3番目の場合、駐車中の車を直撃しており、人が乗っていたらただではすまかったろう。

たしかに、風雨にさらされたり苔むしたりした石灯籠は、風情があって良いものである。
しかし地震の多い国である以上、危なくてしょうがないので、もう廃止にしたらどうかと思う。
灯籠は石でなくてもいいわけで、高田馬場の穴八幡神社ではスチール製らしき丈夫そうな灯籠になっている。
https://ameblo.jp/unonosarara0206/entry-12334880232.html

2011年の震災以来、地震が起きやすい時代に入ったという話を聞いた記憶もある。将来、被害が出る前に出来るだけ置き換えるべきである。
どこから手を付けたらいいんだろうか。
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亡き友の夢

明け方くらいだろうか。
田舎の駅の跨線橋の階段の裏手で、俺と亡くなったはずの友人がいて、手を取りながら、なぜか俺は「ぜったい死ぬな」と泣きながら言っている。
友はまだ若いころの雰囲気で、泣きながらうんうん頷いているという夢で、どうも夢を見ているときに少し声が出てしまったらしく、その自分の声で目が覚めたようだ。涙がこぼれていたような気がする。
夢のなかで、友に対面できたのは初めてかもしれない。

前回は9月1日で、初めて友の夢を見た。
誰かがポリスのロクサーヌを歌っているのに合わせて友は一緒に演奏しているようなかんじであった。俺もギターを弾いて合わせようとしたが、12弦ギターしかなくて、チューニングに手間取っている間に、目覚ましが鳴って目が覚めてしまった。
そのときは、友の顔や姿は、自分が舞台袖?にいたため見えていなかった。
いかにも夢らしいオチだったが残念で仕方がなかった。

夢で逢いましょう。

鬼海弘雄死去

新聞を読んだら訃報が出ていて、思わず大きい声を出してしまった。病気をしているらしいとは聞いていたが。とても残念です。

学生時代に西江雅之先生から、このような話を聞いた。
文字とは何か。
人間は、考えたことをさまざまなかたちで外部化=表現し、残そうとしてきた。絵画、料理、建築、踊り……。
そのなかで考えを表現するのに一番適していたのが文字であった。
しかし、文字は音楽でいえば楽譜にすぎず、実際の言語活動である会話は文字では表現しきれない。それは実際の演奏のニュアンスを楽譜化できないのと同じである。

この話を聞いた時の印象では、先生にはむしろ文字中心文化に対する批判の含みがあったように感じていた。
その後、料理研究家の辰巳芳子さんをテレビで見て、どうもこの人は(文字ではなく)料理で思想を表現しているらしいと気付いた。
川久保玲は、あきらかにファッションのかたちで哲学を表現しているようだ。
同じように、鬼海弘雄は哲学を写真で表現していた。そういえば、法政大の哲学科卒業だったな。



鬼海弘雄さん死去 写真家「PERSONA」
東京新聞 2020年10月20日
 市井の人々を被写体にした写真集「PERSONA(ペルソナ)」などで知られる写真家の鬼海弘雄(きかいひろお)さんが十九日、リンパ腫のため東京都渋谷区の病院で死去した。七十五歳。山形県出身。家族葬を行う。喪主は妻典子(のりこ)さん。
 高校を卒業後、山形県職員となるが一年で退職し上京。法政大に入り、哲学者の福田定良さんに師事する。大学卒業後、トラックの運転手をしたり、造船所や遠洋マグロ漁船で働いたりしながら写真を撮り始める。
 東京・浅草の浅草寺境内で、無地の壁を背景に撮影した肖像写真を収めた「王たちの肖像」が一九八八年、日本写真協会賞新人賞と伊奈信男賞を受賞。正方形のモノクロの画面で、市井の人々の内面を浮き彫りにするこの手法を長年続け、二〇〇四年「PERSONA」で土門拳賞と日本写真協会賞年度賞を受けた。
 自動車工場の期間工などで資金をためてインドやトルコにたびたび出向き、写真集「INDIA」で「写真の会」賞。海外でも高く評価され、米国の写真美術館が作品を収蔵、ポーランドやスペインでも個展を開いた。
 写真集に「東京夢譚(むたん)」「アナトリア」など。著書に「世間のひと」「誰をも少し好きになる日」「靴底の減りかた」「眼(め)と風の記憶」など。今年は北海道東川町主催の第三十六回写真の町東川賞に選ばれた。

鈴木常吉没す

東京新聞を読んでいたら、訃報欄に鈴木常吉の名があった。
「鈴木常吉さん(すずき・つねきち=ボーカリスト)6日、食道がんのため死去、65歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。ロックバンド「セメントミキサーズ」のボーカリスト兼ギタリストとして活動。90年にメジャーデビューし、TBS系のドラマ「深夜食堂」のオープニング曲「思ひで」などを手掛けた。」
また巻頭コラムにも名が出ていた。
「……▼その人の訃報も同じ日に発表されたのだが、どういうわけか出ていなかった。歌手の鈴木常吉さん。六日に食道がんで亡くなったそうだ。六十五歳。皆が知っている人ではないかもしれない▼テレビドラマ「深夜食堂」の主題歌「思ひで」を歌った方といえば思い出す人もいるか。自分も悲しみをこらえながら、人の背中をさすり、慰めるような鈴木さんの歌声。孤独で人生とうまく折り合えない人々を描いたドラマに似合っていた▼東中野のバーのおかみがミニライブに出掛けたそうだ。ライブの最後にもう一回、「思ひで」を歌ってほしいとせがんだ。やんわり断られたそうだが、もう一回とあの歌にすがりたくなる気持ちは痛いほど分かるのである。」

俺にとっては、ソロになってからよりも、あくまでもセメントミキサーズのボーカルであって、かつてはちょくちょくライブにも行っていた。
たしか、イカ天に出た後、ライブを見たくなって探していたら、なぜか浅草の木馬館がライブ会場だった。
このとき、フリージャズトリオのフェダインを初めて見て、しばらくこっちにも夢中になった。
https://www.youtube.com/watch?v=vYGydiTOphc
https://www.youtube.com/watch?v=JiEQlCQszo8

曲は好きな曲も多かったが、ライブは出来不出来の差が大きかったように思う。
というのも、メンバーがあまり固定していなようで、リードギターとベース(二人ともすごく上手い)は安定していたが、トランペット等は毎回違う人だったりしたような記憶がある。
まあプロというかんじではなかったので、それでよかったんだろう。
それにしても、鈴木ツネ氏の歌い方は、投げやりでぶっきらぼうで、何だかとてもカッコよかった。ギターはなぜかフルアコで、にもかかわらず、かなりノイズのかたまりのようなアウトフレーズで、それも良かったな。

「デブでもするのかな」とか「真っ赤な夕日が燃えている」とか、聞きたくなってきた。

リコとリタ- 続き

さて本題に入る。
新型コロナウイルス感染予防としてのマスクは、なぜ着けるのか。
一義的には、自分の唾液などを飛散させないためである。それによって相手に感染させないようにする。
普通のマスクでは、相手から発せられた飛沫などを遮る効果は薄いらしい。
だから医療行為用のマスクがあるわけで、とくにN-95マスクというのは、ウイルスを含んだ飛沫の侵入を防ぐことができる高性能なマスクだそうです。
http://www.sts-japan.com/products/n95/

整理して考えるとこうなるだろう。
・新型コロナウイルスの感染が拡大している。
・ひょっとすると、自分も感染済みかも知れない。
・そうであれば、自分以外にうつさないようにしなければならない。
※感染していた場合は、落ち着くまで(治るか、死ぬか)世間から離れる。
・「相手に」飛沫感染させないために、「自分が」マスクをしよう。
・同様に、他の人も考えてマスクしてくれれば、自分が感染する可能性は薄くなる。
・これは他者にとっても同様の効果がある。
ということで、ことわざ的にいえば、情けは人の為ならず=いずれ自分に返ってきて助けられる。普通にいえば、マスクを着けることは利他的行為であって、それが社会的に実行されれば感染者が減り、自分も助かりそうである。
実際にマスクを着けている人がこう考えているかどうかは分からず、というか、むしろ自分が感染しないためにつけているつもりの人も多かろうと思う。

さて、マスクをすること自体が耐えられないという文化?もあるようだが、そうでないのに(例えば日本で)マスクをしないのはどう考えるべきか。
いろいろな考え方や事情があるのだろうが、避けられない場合以外はマスクをすべき状況だろう(とくに東京は)。
しかし、利他的行動を他者に強要することは許されるのだろうか。
とりあえずは、それはすでに利他的行動というものではなくなっているだろう。例えば「自発性を出せ」とか「ボランティアしろ」というのは、意味が破綻しているのだが、ありがちな言葉ではある。
出させられた自発性は、ふつう自発的とは言わないし、ボランティアは言われてするものではないし。

ありがちなのは「マスク警察」とかの、自警団的行動だろうか。
これはかつての国防婦人会のようになりそうで、型通りのことを押し付けるばかりで、本義を逸脱しそうである。独りよがりになって利己的行動に紙一重になりそうな気がする。
では、行政的にマスク装着を義務付けるのだろうか。
さすがに今の日本社会では、それはできないだろう。
そうなると、一人ひとりに利他的行動を期待する(その一方で社会規範化しての締め付けもするだろう)しかなかろうかと思う。

どうも、世の中の風向きが新型コロナウイルス以来、変わってきたように感じている。制度的な面、経済的な面が取りざたされているが、その奥にある、ものの考え方自体が変わっているようにも感じている。
その時のキーワードが利己と利他なのではないか、と漠然と考えている。
ことの推移を見ながら、しばらく考えていきたい。

リコとリタ

と書くと、女性の名前のようだが、漢字で書けば「利己と利他」となります。
新型コロナウイルスについて、マスクの是非という話題がある。

まず、マスク自体を着けるか否かというところからいくと、どうも口元をかくすのを嫌がる文化があるらしいと思い至った。
例えば、何か理由があって顔を隠したいときどうするか。
ある文化では目元を隠し、またある文化では口元を隠すようだ。
(もちろん、面をかぶって全面を隠すということもあるわけだが)
映像的には、サングラスをした黒服の男と、口元にスカーフを巻いた列車強盗を思い浮かべたりする。
もしくは仮面の忍者赤影という番組があったが、あれなんかは目元を隠していた(穴あきサングラスというかんじ)。
知人に聞いた話だが、あるアイルランド人がキャラクターのキティちゃんを嫌っていて、その理由が「口がないから」だったそうだ。
口がないということは表情がつかめないということでもあり、正体がわからないということでもあるのだろうか。
コロナ感染予防として、マスクというのは手軽で効果的な対策の一つだと思うが、頑なに拒むには理由には、やはり感情とそれを裏打ちする文化的背景があるように思う。

ちょっと話が飛ぶのだが、学生時代に西江雅之先生から聞いた話。
アフリカにカリムジョン(カリモジョン?)という部族がいて、かつては下半身丸出しで暮らしていた。そのかわり、ということでもないのであろうが小さな木の椅子を常に持っていた。
しかし、アフリカにキリスト教宣教師が来て、パンツをはかせようとした(スカートかも知れぬ)。
すると、カリムジョンの人々はそんな恥ずかしいことはできないといって、猛烈に抵抗して戦争状態になった。
今の文明社会とよばれているところから見れば、パンツをはかないのは恥ずかしいことであるが、逆にパンツをはくことこそが恥ずかしいという文化もある(あった)。
マスク着用の是非の議論で、なんとなくこの話を思い出していた。
(続く)

待ち人来たらず。Hal Willner没す。

おみくじの「待ち人来たらず」の待ち人とは、自分を導いてくれる人という意味だと読んだことがある。
先日、久しぶりにくじを引いたら、この言葉があった。自分にとって何事も先行していた師ともいうべき友人を亡くしたあとなので、なおさら身に染みた。死ぬことまで先行しなくていいんだよ。

covid-19により、音楽プロデューサーのHal Willnerが4月6日に亡くなっていたことを昨日知った。
先日のAndy Gillといい、なんだか気持ちが沈むことが続く。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-988.html

Hal Willnerの名前を意識したのは、たしか、クルト・ワイル曲集の「Lost in the stars」だった。
クルト・ワイルという名前は知らずに、ブレヒト名曲集というかんじで有名アーティストが集まったから聴いてみたという程度であったが、いくつか心に残る曲があり、プロデューサーであるHal Willnerの名前を覚えた。
https://www.amazon.co.jp/Music-Kurt-Weill-Various-Artists/dp/B000002GH2/ref=ntt_mus_ep_dpi_4
このなかでは、スティングのMack the Knife、The Pchyedelic Fursのリチャード・バトラーが歌うAlabama Song、ルー・リードのSeptember Song、Mark BinghamのOh Heavenly Salvationがとくに良かった。

そのうちに、ルー・リードやらマリアンヌ・フェイスフルやら俺好みの音楽家のプロデュースをいくつもしていることを知り、また、セロニアス・モンクが好きというところもなんとも心憎くいセンスだと思っていた。
とくに驚いたのは、Night Music(最初はSunday Night)という番組の総合プロデューサーというか、アーティスト選定をやっていたことを知ったときだった。
この番組はかつてテレビ東京で気まぐれにやっていたような記憶があり、なぜか高田純次等がMCともいえないようなかんじで出演していた。
この番組では、ダビッド・サンボーンを司会に、S・レイボーンやらジョン・ゾーン、RHC、マイルスのエレクトリックバンドまで、有名無名を問わずアングラから大メジャーまでの名音楽家を取り上げていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Night_(American_TV_program)
ハウスバンドがすごいメンバーで、ゲストとの熱演はいまもVHSに残してある。

マリアンヌ・フェイスフルもcovid-19に罹患したが、回復した。しかし、ハル・ウィルナーはそうならなかった。年齢もまだ60代で、これからの仕事はますます円熟するだろうと思っていた。
彼の取り上げた音楽家から他の人に興味がわいたというのも多く、Alabama SongつながりでThe Doorsを改めて聴いたりして、俺にとっての音楽の導き手だと思っていた。
一つの音楽的小宇宙が無くなった。とても残念です。

Carla Bley Big Band : The Hal Willner arrangements
https://www.youtube.com/watch?v=P0Bx5ag1YRY
この1曲目のMisterioso が、彼にふさわしいと思う。一つの曲の中にいろいろな要素が高いレベルで盛り込まれていて、しかも全体として統一感があり、ちょっと哀愁もある。
Misteriosoとは音楽用語で「神秘的」という意味である。音楽的魔術師という意味で、まさしく彼にふさわしいと思う。
https://flip-4.com/430

蟄居もまた楽しからずや。

新型コロナウイルスのため、感染者が多い東京在住者は、俺のように自分で楽しみを見つけて、よその人に迷惑を掛けないように大人しく家にいるのが良いwww

ジョージ・ハリソンのファンでもないのだが、オールローズのテレキャスターボディ(3ピース、と思ったら4ピースくらい)を見つけてきて、最近はじっくりとサンディングしている。
https://twitter.com/sengoku_densyo/status/1172043913256828929
ジョージのオールローズ・テレキャスターは、真中にメープルをはさんだサンドイッチ構造(なかは中空—重すぎるので)だったが、俺がアキバの千石電商で見つけたのは、もろにローズのブロックを切り出したもので、非常に重い。70年代後期のストラト(アッシュボディ)のようである。
ローズウッドを使ったテレキャスターはどれも高価で、ネックもローズだとこのくらいのもある。ボディは3ピースですな。
https://www.digimart.net/cat01/shop26/DS06085989/

ネックは、本当はwarmoth(USA)のメイプルでsnakeheadというのを付けたい。これはテレキャスターのプロトタイプと同じ。極太のfatbackにしたいが、コロナのせいで休業中なので思案中。
https://www.warmoth.com/Pages/ClassicShowcase.aspx?Body=1&Shape=93&Path=Snakehead
ちなみに、昨年話題になった映画「Carmine Street Guitars」で、同じヘッドのテレキャスが映っている。かっこ悪さが一周まわってかっこよく見えてきた。

ピックアップは、金がないのでリアのみにして、エスクワイア風にしようかと構想中。
前回組んだ時はブリッジをディマジオのTrue Velvet、フロント(ネック)をヴァンザントのTRU VINTAGE TELEにしてみたが、フロントが好みの音だったので、今度はブリッジをヴァンザントにしようかと思ってる。
あとのパーツは、基本的にゴトーとCRLとか使う予定。
これで一月は楽しめる。で、弾き出したら、ずっと楽しめる。

でも、家にいると家族がいるので、アンプから音を出すのがはばかられるのがちょっと残念。

これが二度目になりうるのか?

太平洋戦争が終わる際、広島の原爆だけではおさまらず、長崎にも落とされてからようやく事の重大さが行きわたり、戦争継続不可能という昭和天皇の判断がなされて、8月15日の詔勅が出された。
昭和天皇は自然科学者(生物学者、南方熊楠と意気投合した)であり、原子爆弾の意味も理解していたからこそ、戦争終結の判断ができたのだろう(昭和天皇は科学者の心性と現人神=神話的存在であるという自己矛盾を生きたわけで、大変だったろうと思う)。
それにしても、二度ひどい目に合わないと行動に移せないのが日本文化の「型」というようにも見える。一度で行動できるほど、日本人も日本社会も賢くはない。

さて、2011年に大震災があり、福島原発事故は当然ながら今も現在進行形で、終息などいつ可能なのか見当もつかない状態である(最低100年はかかるか)。
この大災害と大事故で、日本の世の中は少しは変わってましになるかと思ったが、数年で元に戻った。兆し程度で終わったように思う。
経済よりも生存の確保のほうが優先されるのは当然のはずなのに、そういう意識がったのは、数年もあっただろうか。
アベノミクス、under controlでオリンピック誘致等、経済優先にすぐ戻ってしまったし、ほとんどの人はそれを当然視しているように見える。

原発事故は、原爆と同じく、当事者にとっては重大な意味があり、その前と後では世界が違うほどの意味があるだろう。
だが、広島と福島だけでは世の中は動かなかった。
ということは、考えたくはないのだが「二度目」が必要なのだろうか。しかし原発事故が再び起こったら、この狭い日本には逃げ場はなく、致命的となるだろう。
つまり二度目があったら、日本自体がその時点で破滅しており、その時に気付いても何の行動もとれない。
しかし、ひょっとして、このコロナ禍は日本社会が変わる「二度目」の意味があるのではなかろうかと思うようになった。
というのは、現状でさえ、以下のようなことが起こるのは避けがたいと思われる。
これはhttp://my.shadowcity.jp/2020/04/post-18226.htmlに書き込んだ俺のコメント。


不景気云々という段階を過ぎたのは当然として、経済崩壊というよりは、経済を含む世の中のそのものの仕組みが変わるんではないかな。
というのは、普通の人のものの考え方自体が変わってくるように思うから。
会社に行かないと仕事ができない→行かなくても仕事はある程度できる。ときどきミーティングする場所があれば、こんな大きなオフィスはいらない。
てか、会社にそんなに依存しないほうが良いんじゃないか、とか、混んだ電車に二度と乗りたくないとか。
大学のキャンパス行かなくても授業は可能→通信制にオンラインコースがあれば十分じゃね、とか。
都市部に集中すると脆弱性が増すというか冗長性(プラスの意味で)がなくなるとか。
国政よりも、目の前に相手がいる地方政治のほうがまともだとか。
国際分業なんぞ危うすぎて、臍が茶を沸かすとか。
治療法のない流行り病には、貴賤富貴を問わず儚いことは砂の城と同じだとか。


どうも、これまでの世の中のようにはいかない雲行きである。
一度の災厄では目が覚めないが、今回の災厄でやっと目が覚めるのではないかと思う一方、犠牲が大きすぎるとも思う。
とりあえず個人的にはこの疫病を何とか生き延びて、世の中がどう変わるか(関与できるか)見ていきたい。

数もまた言霊となりえるか、もしくは及川俊哉に新作を期待する。

数詞というのは、他の単語などとは違って感情移入しにくいのではないか(なんとなく)。白髪三千丈等と言うときは、誇張表現として何らかの感情が込められているようにも思うが、それも限定的という印象がある。
数詞は他の品詞とは違い、強烈な意図=言霊は込めにくいように思うのだが、結論からいうと、数というか数字が言霊となることはよくある。
やはり「言霊の幸わう国」だからなのだろうか。しかし、場合によっては裏目に出ることもある。

コロナ禍について考えているが、国によって、というか指導者によって対策がずいぶん違う。
わりとうまく対策出来ているといわれるドイツと台湾の政権トップは、2人とももとは政治家ではなく学者である(蔡英文台湾総統は経済学、アンゲラ・メルケル・ドイツ首相は物理学)。
学者だから頭がいいというような話題ではなく、論理性を大事にして、それに従って行動しているということだろう。現実を予見なく直視し(観察)、筋道を立てて考え(仮説)、それを実行する(実験)。もしくは観察と関与というべきかもしれない。
新型コロナウイルの感染拡大というのは、基本的に自然科学的事象であって、その対策も自然科学に沿ったものを行うしかない。
未感染者の感染予防(衛生状態維持等)、感染者の割り出し(検査)、感染者の隔離と重症者への治療等。筋道(論理)を追いかけていけば、やるべきことは分かっている。それを実行するか否かだけの問題である。自然科学に忖度=人の思惑は通用しない。

日本はどうだろうか。
これまで検査は少なく、よって感染者の広まり(感染者数)は分からず、基本的な情報がないために根本的な対応ができない。
いかにも統計情報を操作する安倍政権らしい状態である。
というのは、これまでの経済政策を見るとこんな発想のように思える。
株価が高い→景気が良い。ならば株価を維持しよう→株価が高い=景気が良い(はずである。ただし実体経済のことはあえて無視)。
同様に、コロナ発症者が少ない=うまく抑え込んでいるということであれば、コロナ検査をしなければ、発症者は増えない→感染爆発していないはず(ただし実態は知らん)。
株価が一定の値であれば、経済が良いとするように、検査のうえで判明した発症者数が少なければそれで良いとするところは、同種の発想である。
つまり、見かけの数で現実を糊塗しているのであるが、日本(というか安倍政権)の場合、ある種の数が現実を凌駕するほどの意味を持たされているのだろう。

紀貫之が古今集仮名序の冒頭で、こう言っている。

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

これは歌に込められた言霊の力を語っているのであるが、現代の経済状態や自然科学的事象であるコロナウイルス(≒目に見えぬ鬼神)には、残念ながら通用しないようだ。
しかし、先述したある種の数(しかも願望が込められている)が現実や未来を左右すると考えるのは、やはり言霊思想の一変種と思わざるを得ない。
「数値」といえば、ある客観性を持った基準で計測された値であり、自然科学に裏打ちされているように思う。
しかし「数字」といえばあくまでも文字であって、言葉→言霊から逃れられぬのかもしれぬ。

さて、ここからが本題。
及川俊哉という詩人がいる。https://syunya-oikawa.com/
初めて知ったのは朝日新聞夕刊(2019年3月6日)に掲載された祝詞(のりと)文体の「瀬織津姫大神に冀ふ詞」(せおりつひめのおおかみにこひねがうことば)という詩で、福島原発事故の終息を乞い願うことばであった。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13921782.html
感銘を受けたので詩集も買った。
他にも、原発を神と見立てて、事故の終息を奏上する祝詞文体の詩がいくつかあって、かなりのショックと感動を受けた。
さればこそ、及川俊哉にはコロナ調伏の詩(祝詞)を作ってもらいたい。

先ほど、目に見えぬ鬼神であるコロナウイルスには、言霊は効かないと書いた。
コロナウイルスの感染自体は、自然科学的事象である。
しかし、個人の感染自体は、運命の問題に近い。いくら感染予防をしていても、罹患するときはあるだろう。逆に、無神経にマスクもせずに咳をまき散らすような輩が、何事もなくやり過ごすこともあるだろう。
もちろん感染予防は可能な限り行うとして、しかし人間は自然科学だけで生きているわけではないので、なにかが必要だろう。
それが言霊であっても良いのではないかと思っている。

ところで祝詞とは何であろうか。
『平成新版 祝詞事典』(戎光祥出版)には、以下のようにある。

 今日の神社祭祀における祝詞は、神人合一の最高潮の場において「語る儀礼」として、奉仕者である神職が、祭神に祭祀の意義と目的とを奏上する言葉(文章)であるが、古くは祭祀の場に参集した人々に対して宣り下された神語(神々の言葉)でもあった。(P.12)

古くは神からの言葉を神職が預かる(つまり預言 ※予言じゃないよ)ものであったが、今は神に対してこいねがう(希う、冀う)、人から神にむけての言葉である。つまり祈りの言葉である。
郷里の相馬市・中村神社にこういう看板があるので、書き写しておいた。

相馬中村神社
 御祭神天上界第一位の神
天之御中大御神

 自分の願望と宿命とを
心の中でつなぐものが
祈りである

 祈りとは宿命の限界の中で
新しい運命を呼びおこし
作り出すものである

 そして祈ることで人間は
自分の力の及ばぬ大きなものを
神仏に依存することによって
自分の及ぶ限りの実践に
踏み切ることができる

 ある意味では
実行の一番深いものが
祈りである

誰がお書きになったのかは分からないが、なんだか心に残っていた言葉であった。
これによれば、祈りとは、現実の限界のなかで、現実を超えようとする実践であり実行である。 
とすれば、祝詞も実践であり実行なのかもしれない。

今日もまた、津々浦々の神社仏閣で疫病調伏の修祓の儀式や加持祈祷やらが行われていると思う。神と人とをつなぐチャンネルという立場である以上、禁裏においてもそうであろう。
それだけでも十分なのであろうが、現状を見ると足りないような気がする。
いや、そうではないか。専門の人ではなく、普通の人の祈りの言葉が欲しいということか。
先に挙げた『祝詞事典』にはこうある。

 神社は、神道を具体的に表現した形式である。その神社を構成する基本的な要素は、<祭神>と<崇敬集団(氏子・崇敬者)>と<祭場>であり、祭神と崇敬集団との神人の交流として<祭祀(祭り)>が奉仕される。(p.10)

その祭祀の一部として祝詞があるのだが、上述したように崇敬集団が基本である。祈り自体は、今回は目の前の小さな集団からはじまり世の中全般への、神への働きかけを奏上しているのであろう。
しかし、崇敬集団でなくても祈りの言葉が欲しい。
そのときに、神職ではなく詩人である及川俊哉が思い浮かんだ。なんだか論理が飛躍しているのだが、彼に神への言葉を語ってもらいたい。それは祝詞の文体を持ちながらも、現代のテーマを扱うものだろう。
神なき現代(俺自身はなんらかの存在はあるように、またあってほしいと思っているのだが)で、それでも祈りを奏上するのであれば、神職とは別のかたちで言霊を扱う詩人の務めなのではないかと思っている。
まあ、我ながら何を言っているのだとは思うのだが、偽りない心でもある。
世にふたたび平安が訪れることを願うばかりだ。
しかし、これまでとは違う世の中になるだろうな。
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