FC2ブログ

eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2018-09

瓜に爪あり レンズに爪無し

先日、今更どういうわけかニコンF2様をお招きしたのだが、さっそくレンズをそろえたくなった。しかし、禁断のニコン沼に入るのは、さすがにためらわれるので、できるだけお金はかけない方向で行きたい。
とかいって、レンズ話をネットで逍遥していたら、安価にして写りが良いという、ニコンレンズシリーズE 75-150mm F3.5というものがあることを知った。
ニコン様が自分でいうのだから間違いなかろう。
http://www.nikon-image.com/enjoy/life/historynikkor/0042/index.html

翌日、中古カメラ屋をのぞいていたら、ジャンク扱いでこのレンズが売っていた。さっそく買ってきたが、カビ等もとくにないようで(俺の目で)、2000円もせず良い買い物をしたと喜んでいた。
と思ったら、手元にあるF2フォトミックは、レンズ側に露出計連動爪が必要であったが、このレンズにはついていなかった。つまり露出計が連動しない。
不変のFマウントとかいうらしいが、じつはけっこう仕様が変わっているらしい。このへん長くなるので省略するが、大昔に爪無しレンズで始まり、その後爪が必要になったが、また不要になったようだ。ほかにAi、非Aiとかいろいろあるらしい。
そのため、ニコンではサービスセンターで一時期、爪無しレンズに爪を移植するサービスがあったようだが、とうの昔に終了していた。
しかも、このレンズはニッコールではなく、シリーズEという別枠の廉価版ということで、そもそも爪つけサービスの対象ではなかった。絞りリングがプラ製なので、耐久性の問題があったのだろうか。

ということで、自力更生が必要である。人民服着ていたころの中国のようだな。
まず、爪の入手だが、これが難しい。
ジャンクレンズを拾ってくるにしても、数千円はする。しかも、手持ちのレンズより、たいてい状態が良かったりするので、部品取りにするのは忍びない。
いろいろ思案していたが、タムロンのアダプト―ルマウント、ニコン用が使えそうである。中古屋に行くと300円で転がっていたので、さっそく購入。
これを分解すると、爪が出てくる。
外れないねじがあって苦労したが、結局不可逆的分解(=破壊)してしまった。その際、出血してしまった。
罰が当たったのだろう。

ともあれ爪は入手した。都合のいいことに接着面になる「足」の部分は、細長く伸びていて、プラ製の絞りへの負荷を分散させられそうだ。
とりつけは、とりあえず二液式接着剤にした。
工程は、
1.レンズの絞りの5.6付近をナイフとやすりで削って曲面を出す。だいたい3.5~11あたりまで削った。これが手間かかる。
2.接着する。
3.(未着手)ねじ穴を作ってねじで補強。ねじ自体はアダプト―ルから持ってくる。

注意点は、
・ニコマートFTNは、本体側のガチャチャの棒が長くて、余裕がある。
これに位置を合わせると、F2フォトミックだと「棒」にひっかからない。一度これで失敗した。

その後、何度かつけてガチャガチャしては悦に入っていたが、ときどき「ガチャガチャの棒」が爪にはまらない時がある。というか、けっこうそういう場合が多い。
純正ニッコールと比べてよーく見ると、正面から見て左側の「棒」が爪に最初にあたる部分の角度の問題のようである。
つまり棒が爪の途中で引っ掛かって、爪の凹みにはまらないのだ。
ということで、またまたやすりを取り出して、爪を削って調整したところ、凡そよくなった。
これからしばらくテストしてみようと思う。
スポンサーサイト

Nikon F2様ご入内

いまさらながら、ニコンF2を買ってしまった。
フィルム自体も風前の灯火だということは十分分かっているのだが、俺はいったい何をしたいのか。
それにしても半分ジャンク(けっこう美品で露出計も動いている)で、8,000円とはどういう値段なのか。
かつての憧れの君が、今はぞんざいに扱われているのが忍びなくて、家に来ていただいた。
家に帰ったら、カビ付きの35/2AIニッコールを付けてみようとぞ思ふ。

続きを読む »

天と地のあいだのくそ 内藤正敏「異界出現」展

東京写真美術館で、内藤正敏の「異界出現」展を見てきた。
新宿の安売りチケット屋で早めに入手しておいたが、やけに安かったな。
内藤正敏は、「デジャブ」誌で、富士山頂からの夜間長時間露光の写真などを見て、どうも「婆バクハツ」だけの人ではないと思って、注目してきた。
そういえば「修験道の精神宇宙」もいつの間にか持っていた。

大昔、あるカメラマンと仕事をしたが(照明関係を撮るのがうまいひとだったが、おれが頼んだのは工業機械だった)、その人が写真家の吉田元さんのことを知っていることから、いろいろと話をした。
そのなかで、内藤正敏の話がでて、そのカメラマンは一度手紙を書いたことがあったが、非常に丁寧で真面目な長文の手紙が届いて恐縮したといっていた。またお金とは全然縁がない人だとも。そうだろうと思って聞いていた。

初期作品から通して見ていくのは初めてだったが、かなりの内容を持っている写真展だった。今日はNHK教育の日曜日美術館で紹介するので、混むのではないかと思って早めに行ったが、別に大挙して人が来たわけではなかった。そうだろうとは思っていたが、寂しくもある。

大学で化学を専攻しただけあり、初期作品はその傾向が強い。ビデオ映像で星新一のショートショートとのコラボレーションがあって、ちょっと面白い。
展示の最後まで見てから、最初に戻ると、ミクロ(極小)とマクロ(極大)を同じ視点でとらえていたことがよく分かる。

いくつか印象に残った写真について書いてみる。
・月夜の盆踊り
恐山での婆さんばかりの盆踊りだが、岡野弘彦の「またひとり顔なき男あらはれて 暗き踊りの輪をひろげゆく」という歌を思い出した。
この歌では男女が踊っているところが、内藤の写真とは違うが、やはり死者が戻ってきて、生者の踊りの輪に交じっているだろうなと思わせるところで通じている。
・踊る老婆
この婆様は、生者なのだろうが、没我の境地にいるようでもあり、踊りのなかではこの世とあの世はつながっているのだろうか。

そういう目で見ると、
・ホテルニュージャパンの火事
の写真は、タイトルを見たら肝が冷えた。ニュースでの大惨事の様子は覚えていたが、就職してから赤坂見附付近で仕事をしていたら、まだホテルの焼け跡の一部が残っていた。生者が我が物顔で往来しているように見えるが、じつは死が裏打ちされていることを再認識させられた。現実に、あの火事の現場ではあの世の釜のふたが開いていたのだった。
そのなかで、
・花見をする浮浪者
は、花に囲まれた世に埋もれたる賢者のような風情で、心が和むところがあった。
・流れ灌頂
は、知らない言葉だったので調べてみた。
「出産で死んだ女性の霊をとむらうために、橋畔や水辺に棒を立てて赤い布を張り、通行人に水をかけてもらう習俗。布の色があせると亡霊が成仏できるという。地方によっては水死者のためなどにも行い、供養の仕方にも違いがある。」(大辞泉)
なにか悲しいことがあったんだろうな。

この調子で書いていくとキリがない。

・遠野物語・出羽三山
については、素晴らしいので誰もがふれるだろうから、あえて書くまでもない。
それでも、
・神々の異界
には、やはり言葉にならぬ心の動きがあった(体も、かな)。どの写真も宇宙観、生命観、歴史観、様々なものが重層的に重なりつつ、一つの写真として成立している。巨大プリントにして、佐倉のDIC川村美術館で、マーク・ロスコのとなりに並べて見たいものだ。
そのなかでも、
・御来光 月山山頂
はブロッケン現象で内藤自身のシルエットが映っているが、半分くらい神というか、あの世に身を移しているようにも見えた。

最終コーナーの、
・内藤正敏の軌跡展
での、いろいろな時代の写真を並列に並べ、テーマは異なっているようだが、本質は同じものを追及しているということが如実にわかる展示は、それだけの価値がある。ここを見てから、また最初から見直すと、そのへんがよく分かる。

一番最後に、
・聖地
という写真があり、川辺に動物のフンらしきものが映っている。山のけもののフンだと思って見ていたが、図録を見ると、内藤自身のくそであった。
これを見ていたら、文化人類学者である西江雅之先生の本にあった「人は、天と地のあいだにあるくそである」というアフリカの言葉を思い出した。
内藤は、岡本太郎の写真をプリントした仕事があるが、岡本太郎はマルセル・モースに師事した文化人類学者でもあった。また内藤自身は民俗学者でもある。
相通ずるところがあるからだろうか、この言葉を思い出した。
内藤は、天と、地と、地の底の、三つでありながら一つでもある世界を、一見土俗的に見えながらも、scienceの視点を以て、写真という化学的技法を用い、かたちとして定着させているように思う。
そしてその撮影する主体である内藤自身は、天と地のあいだでは、とるにたらない「くそ」でもあるが、写真のタイトルにあるように「聖地」に生きてあることを自覚する、別格の「くそ」でもある。
とはいえ、撮影する際は主体・客体という意識を超えたところにあるのではないかとも思う。

万人向けではないかもしれないが、見るべき写真展だと思う。

Glenn Brancaが亡くなっていた。

5月13日に亡くなっていたそうだ。一度ライブで体験したかった。
Glenn Branca - Lesson No.1 for Electric Guitar

こういう映画もあるんでしょうな ホドロフスキー賛江-3

早稲田松竹ホドロフスキー祭の最後というわけで、「サンタ・サングレ」と「ホドロフスキーの虹泥棒」の2本立てを見た。
いろいろ見方はあると思うが、「虹泥棒」は、破綻寸前のストーリーを無理やり体裁を整えたかんじで、悪くないが、特別面白いわけでもなかった。
というか、特異な設定なので、いつか面白くなるだろうと思ったらそうなる前に終わったというか。
べつにホドロフスキー風味を期待していたわけではないが、そうでなくても、もうちょっとストーリーを整理したらよかったのではないかと思う。
最後の場面は救いはあるけどね。
見どころとしては、貧民集えるパブのおやじがイアン・デューリーで、これがはまり役だった。もともとパブロックから出てきた人なので、役柄にぴったりだった。
しいていえば、パブのハウスバンドをブロックヘッズにしたら、個人的には傑作になったんだが。

「サンタ・サングレ」は、予想以上によくできた映画。
ストーリーも卓抜で、設定もホドロフスキーらしさがあふれているわりに、破綻なく(というか普通の映画よりは設定自体相当破綻しているが)、結末にむけてお話が進んでいく。
起承転結がはっきりしています。
とはいえ、最後の場面、普通に逮捕される=現実(世俗)世界に引き戻されるように思えるが、もうちょっと飛躍があってもよかったような。

というわけで、6本見たが、今のところ「エンドレス・ポエトリー」がいちばん好みだった。勢いあまって、ホドロフスキーのタロットの本を借りてきたが、考えてみると、タロットカードも持っていないので、これは図書館にすぐに返そうと思う。

2 be a 69, not to 66 6月9日はロックの日

6月9日は、ロックの日。2 be a 69, not to 66(中版カメラではない)なので、いちおう「天国への階段」を聴いておいた。
どちらかといえば、GOGO7188の「こいのうた」のほうがロックなかんじがする。

それにしても、半年前から、新宿のイシバシ楽器で売れ残っていた70年代のムスタング。白ボディ、メイプルネック、黒ピックガード、マイクがEMGに換装、というのが8万円代で売っていた。どうも人気がないらしく7万代に落ちてきて、もう少し落ちたら、買おうかと思っていたら、売れていた。
ロックの日は、特別割引があったそうだが、空しい。

詩の話 ホドロフスキー賛江-2

引き続き、ホドロフスキー映画の話を。
今回初めてみた「エンドレス・ポエトリー」はかなり気に入った。併映は「リアリティのダンス」で、これも良かったが、前者のほうが好きである(というか、結局エンドレス・ポエトリーは2回見た)。
ちょっと驚いたが、主人公をはじめ、いろいろな役柄でホドロフスキーの息子(複数)が出演していて、家内制手工業のような映画作りだと思った。

それは良いとしてどうもホドロフスキー自身は、一義的には自分は詩人だと思っているようだ。
では詩および詩人とは何だろうか。日本ではそれほどではないが、たいていの国では文芸の最高峰が詩であり、詩人の社会的存在は意味が大きい。
日本の場合は、定型詩(俳句、短歌)は案外にしぶとくて、人気も実作者も少なからずある/いる。ただし、社会的影響力は必ずしも大きくないような印象がある(とはいえ、人の心に入り込んで、思わぬ時に影響する)。
現代詩(定型的リズムがないものと言えばよいか)はどうだろうか。
人気のある詩人もいて、ときどき話題になるが、文芸の最高峰という位置づけではなかろう。
しかし世界レベルでは、(俗っぽい例ではあるが)ノーベル文学賞はけっこう詩人に授与されている。

まあ、そのへんは別にいいのであるが、なぜ詩が重視されるのだろうか。
ホドロフスキーを例に考えると、詩として口から出た、日常の言葉とは違う、一連の言葉は、単なる言葉の意味の連なりと音の響きの連続ではなく、かなり実体感のあるもののようだった。
詩を黙読するのは、ナンセンな話で、そもそも音の響きが現実世界に放たれ、それが相手に届いて特別な意味を生ずる。
映画を見ていると、詩は詩人の口から語られ、聞き手に届き、確実に相手(という現実)を変えるもののようであった。さらに言えば、そのまま現実世界に働きかける=世界を変える力があるという確信があるようであった。
むしろ、そのような確信を持つ者だけが、詩人となる資格を持つのだろうか。
ホドロフスキーの場合、まず詩の世界があり、それを現実化すると、ある場合には映画になったというように見た。
つまり、詩という特別な言葉による一種の世界創造である。こうなると、旧約聖書の創世記を思い出す。
神が「光あれ」と言えば、光があるようになった。そのあとも、「神は言われた」という言葉とともに、空ができたり、植物ができたり、月ができたり、動物ができたりする。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
詩人の言葉=詩は、それを再現とまではいかなくても、それをなぞる力、もしくは再度世界を生まれ変わらせる力を持つ、という含意が共有されているのではなかろうか。

ちなみに、歌、音楽、踊りのシーンもふんだんにあり、ホドロフスキーはかなり関心があるのだろう。
これは当然のことで、詩があれば自然と歌が生まれ、歌があれば音楽とダンスがはじまり、それだけでも日常とは別の世界がその場で生まれる。
そういえば、若きホドロフスキーが友人たちと別れてパリに旅立つときに歌う歌(僕は船で旅立つ、云々)は、チリあたりでは有名な曲のようで、別の映画(「サンタ・サングレ」だったかな)でも、歌われていた。
いろいろ書いたが、「エンドレス・ポエトリー」は何度でも見たい。
こんなことを思いついたのは、やはり早稲田松竹で先日見た、ジャームッシュの「パターソン」がやはり詩と詩人についての映画だったので、いろいろ考えてしまった。しみじみとした、いい映画でした。
http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/2018/jarmusch2018.html
ちなみに、このときの併映は、Iggy Popの「Gimme Danger」で、彼の詩がシンプルなのは、子供時代に見ていたテレビの司会者が「ファンレターは20語以内にしようね」というのを今でも守っているからとか言ってたな。

で、「リアリティのダンス」は、ユダヤ移民のお父さんは苦労しすぎて性格が歪んだが、幼少期のホドロフスキーもとばっちりで苦しんだ(でも、それによって現在のようになった)という話でした。
早稲田松竹で見たときは、たまたま「エンドレス・ポエトリー」、「リアリティのダンス」の順番で見たが、密接につながっている映画なので、先行作である「リアリティのダンス」から見たほうが、より楽しめると思います。

カルト映画は時代を乗り越えるか(ちょっと無理っぽかった) ホドロフスキー賛江-1 

早稲田松竹でアレハンドロ・ホドロフスキー特集をしていて、30年ぶりくらいで「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」を見た。
この2本は、映画版諸星大二郎などと呼ばれることもあり、いわゆるカルト映画といわれているようだ。
当時はそれなりにショッキングだったり、意図が分からないなりに意味ありげだったりしたシーンが、いま見てみると「あるよね、これ」という印象となってしまっていた。
もちろん、当時は十分に常軌を逸した、これまで見たこともないような映画だったのだろうが、先達者の悲しさか、自らが切り開いた世界に他の映画が追い付いてしまって、もともとのものがかえって陳腐化してしまうという悲劇?に陥っているように見えてしまった。
「エル・トポ」を俺のようなおじさんが見ると、最初は子連れ狼、途中はブルース・リーが謎のアジトで順番に敵を倒す映画(ドラゴン危機一髪?)のようで、でもここでライバルを倒す手口が卑怯なのが面白い。その後、地下の洞窟に暮らす人々との出会いは、手塚治虫「火の鳥」黎明編のようである。で、洞窟と地上の町をつなぐトンネルを作るところは「恩讐のかなたに」のようである。最後に自ら身を焼くところは、ベトナム戦争に反対した僧侶を思い出す。
このように、他の作品等を連想しながら見てしまう自分が悲しいのであった。

「ホーリー・マウンテン」は、キリストになり損ねた青年(マグダラのマリア風の女性もいる)が狂言回し的な役回りで登場するが、彼は途中で離脱する。他の登場人物は、どうもホドロフスキーの故国チリのピノチェト政権下の成功者たちを思わせ、それはいまだに他の国にも続いている通俗的にして普遍的な腐敗した人間像として描かれている。
とはいえ、青年が導師に出会って、自分の大便を錬金術風に金にかえるなど、「あるよね、こういうの」という感は否めない。

ということで、いまでも面白いとはいえ、さすがに時代を乗り越えられない部分も多々感じられたのだった。

Windows10でwindows updateしたらOffice2013が不調になった件について

例によって、というのが枕詞につくくらいwindowsの定期updateはちょくちょくトラブルを引き起こすのであるが、今回けっこう苦しんだので、書き留めます。
どなたかの参考になれば幸いです。

DELLのデスクトップPC(7→10に更新済み)を使用していたが、今年初めの大規模update1709でつまづいた。
自動的にインストールするが、完了せず、元に戻るというのを夜毎に繰り返すので、自動更新を延期したまま使っていた。
他のマシンで、update1803でつまづいたが、「クリーンブート」するとうまくいく時があるとのことで、それを実施、成功。
これを踏まえて、DELL機をクリーンブートし、1709を適用したら無事成功。そのまま1803に自動的に進んだ。
1803終了とのことで、PCを操作しようとしたらHDDが100%使用になり、作動が重い。
いろいろやってみたが、改善せず。
とりあえず、wordを起動したところ「作業ファイルを作成できません。環境変数 TEMP の設定を確認してくださいのエラー」とか言い出した。ksg
ちなみにexcelは通常通り起動した(が、後で試みたらエラーメッセージを吐いてたな)。Outlookはwordと同じ。
つまり起動するが操作できない(wordの場合は、ファイルは開いても保存できなかった)。

解決策を探すと、まれによくある事象らしい。
すなわち対策を施す。いろいろやったが、これがうまくいった。理由はわかりません。
http://s-zenba.blog.so-net.ne.jp/2016-06-06 より引用しております。ありがとうございます。

1. Internet Explorer の一時ファイルの場所を再指定する。
→これだけ?では効果なし。
2. レジストリ エディター regedit.exe を用いて、以下のキーの Cache エントリーのデータ設定をし直す。
→効果あり。具体的にはこんな感じでした。
①まず、ここまで開く。↓
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion
\Explorer\User Shell Folders
②chacheを開く。ここで「値のデータ」をよく見ると、ユーザーフォルダーのユーザー名指定がなぜか他のユーザー名になっていた。例えば、
C:\Users\taro\AppData\Local\Microsoft\Windows\INetCache のはずが、
C:\Users\jiro\AppData\Local\Microsoft\Windows\INetCache になっていた。
さっそくjiroをtaroに入力しなおしたところ、問題が解決した。
なんでユーザー名が入れ替わったのか、原因はよく分からんが、これで良しとしました。

ちなみに、問題発生時にいろいろ確認したところtaroでログイン時に問題は起きていたが、jiroでログイン時には問題なく起動していた。
ユーザーフォルダーの再構築を先行しようと思ったが、けっこう手間なので、まずは上の書いたやり方で試みました。

じつは、このやり方にたどり着くまで、
・クリーンブート→解決せず
・上書きインストール→解決せず
・ユーザーフォルダー再構築→解決せず。ドメインユーザーなので、いろいろわからん状態になって失敗。
・直前に作っておいたシステムイメージからのHDD復旧
→クリーンブートからやり直ししてまた失敗
というわけで、2,3日苦しみました。

こういうことに苦しむのは、なんだか馬鹿らしいわけではある。

二種類の「氷川清話」

勝海舟の座談をまとめた「氷川清話」という本がある。
坂口安吾の堕落論あたりに、父の勝小吉「夢酔独言」とともに書名が出ていて、最初に読んだのは角川文庫版だった。のちに講談社学術文庫版を読み、このなかで江藤淳やら松浦玲やらが、先行本(角川版のようだ)を不正確だとかなり攻撃していた。
俺もその通りだと思っていたが、最近古本でまた角川版を手に入れて読んでいたら、ある考えに至った。
勝は人気(じんき)、呼吸、気合を重んずる。となると、正確さを重視した講談社版よりも、(おそらくは勝自身も調子こいて語ったと思われるものの名残がある)角川版のほうが、間違いが多くても勢いが感じられて、なにやら本人の気分が伝わってくるようで面白い気がしてきた。
もともと、勝は福沢に攻撃されたりするくらいで、いろんな方面からいい加減な奴だと揶揄されてきたわけで、その勝の言葉に正確さを求めても、あんまり意味がない。
たしかに、角川本は編著者の意図による改編もあって問題は多いのだが、そもそも勝自身がほらふき気味だったことは、当時の読者も心得ていたところもあったのではないか。
となると、正確さよりも、勝の息遣いが感じられるような、より生々しさのある角川本も捨てがたい。というか、角川本では勝部真長(かつべ みたけ)のわりと感情的な評伝がなかなかの読み物だったりする。
ということで、また角川本を読み飛ばしている。
困ったことがあると手に取りたくなる本です。
人気ブログランキングへ

 | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

     

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

鰻犬堂

鰻犬堂

FC2Ad