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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2020-05

待ち人来たらず。Hal Willner没す。

おみくじの「待ち人来たらず」の待ち人とは、自分を導いてくれる人という意味だと読んだことがある。
先日、久しぶりにくじを引いたら、この言葉があった。自分にとって何事も先行していた師ともいうべき友人を亡くしたあとなので、なおさら身に染みた。死ぬことまで先行しなくていいんだよ。

covid-19により、音楽プロデューサーのHal Willnerが4月6日に亡くなっていたことを昨日知った。
先日のAndy Gillといい、なんだか気持ちが沈むことが続く。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-988.html

Hal Willnerの名前を意識したのは、たしか、クルト・ワイル曲集の「Lost in the stars」だった。
クルト・ワイルという名前は知らずに、ブレヒト名曲集というかんじで有名アーティストが集まったから聴いてみたという程度であったが、いくつか心に残る曲があり、プロデューサーであるHal Willnerの名前を覚えた。
https://www.amazon.co.jp/Music-Kurt-Weill-Various-Artists/dp/B000002GH2/ref=ntt_mus_ep_dpi_4
このなかでは、スティングのMack the Knife、The Pchyedelic Fursのリチャード・バトラーが歌うAlabama Song、ルー・リードのSeptember Song、Mark BinghamのOh Heavenly Salvationがとくに良かった。

そのうちに、ルー・リードやらマリアンヌ・フェイスフルやら俺好みの音楽家のプロデュースをいくつもしていることを知り、また、セロニアス・モンクが好きというところもなんとも心憎くいセンスだと思っていた。
とくに驚いたのは、Night Music(最初はSunday Night)という番組の総合プロデューサーというか、アーティスト選定をやっていたことを知ったときだった。
この番組はかつてテレビ東京で気まぐれにやっていたような記憶があり、なぜか高田純次等がMCともいえないようなかんじで出演していた。
この番組では、ダビッド・サンボーンを司会に、S・レイボーンやらジョン・ゾーン、RHC、マイルスのエレクトリックバンドまで、有名無名を問わずアングラから大メジャーまでの名音楽家を取り上げていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Night_(American_TV_program)
ハウスバンドがすごいメンバーで、ゲストとの熱演はいまもVHSに残してある。

マリアンヌ・フェイスフルもcovid-19に罹患したが、回復した。しかし、ハル・ウィルナーはそうならなかった。年齢もまだ60代で、これからの仕事はますます円熟するだろうと思っていた。
彼の取り上げた音楽家から他の人に興味がわいたというのも多く、Alabama SongつながりでThe Doorsを改めて聴いたりして、俺にとっての音楽の導き手だと思っていた。
一つの音楽的小宇宙が無くなった。とても残念です。

Carla Bley Big Band : The Hal Willner arrangements
https://www.youtube.com/watch?v=P0Bx5ag1YRY
この1曲目のMisterioso が、彼にふさわしいと思う。一つの曲の中にいろいろな要素が高いレベルで盛り込まれていて、しかも全体として統一感があり、ちょっと哀愁もある。
Misteriosoとは音楽用語で「神秘的」という意味である。音楽的魔術師という意味で、まさしく彼にふさわしいと思う。
https://flip-4.com/430
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蟄居もまた楽しからずや。

新型コロナウイルスのため、感染者が多い東京在住者は、俺のように自分で楽しみを見つけて、よその人に迷惑を掛けないように大人しく家にいるのが良いwww

ジョージ・ハリソンのファンでもないのだが、オールローズのテレキャスターボディ(3ピース、と思ったら4ピースくらい)を見つけてきて、最近はじっくりとサンディングしている。
https://twitter.com/sengoku_densyo/status/1172043913256828929
ジョージのオールローズ・テレキャスターは、真中にメープルをはさんだサンドイッチ構造(なかは中空—重すぎるので)だったが、俺がアキバの千石電商で見つけたのは、もろにローズのブロックを切り出したもので、非常に重い。70年代後期のストラト(アッシュボディ)のようである。
ローズウッドを使ったテレキャスターはどれも高価で、ネックもローズだとこのくらいのもある。ボディは3ピースですな。
https://www.digimart.net/cat01/shop26/DS06085989/

ネックは、本当はwarmoth(USA)のメイプルでsnakeheadというのを付けたい。これはテレキャスターのプロトタイプと同じ。極太のfatbackにしたいが、コロナのせいで休業中なので思案中。
https://www.warmoth.com/Pages/ClassicShowcase.aspx?Body=1&Shape=93&Path=Snakehead
ちなみに、昨年話題になった映画「Carmine Street Guitars」で、同じヘッドのテレキャスが映っている。かっこ悪さが一周まわってかっこよく見えてきた。

ピックアップは、金がないのでリアのみにして、エスクワイア風にしようかと構想中。
前回組んだ時はブリッジをディマジオのTrue Velvet、フロント(ネック)をヴァンザントのTRU VINTAGE TELEにしてみたが、フロントが好みの音だったので、今度はブリッジをヴァンザントにしようかと思ってる。
あとのパーツは、基本的にゴトーとCRLとか使う予定。
これで一月は楽しめる。で、弾き出したら、ずっと楽しめる。

でも、家にいると家族がいるので、アンプから音を出すのがはばかられるのがちょっと残念。

これが二度目になりうるのか?

太平洋戦争が終わる際、広島の原爆だけではおさまらず、長崎にも落とされてからようやく事の重大さが行きわたり、戦争継続不可能という昭和天皇の判断がなされて、8月15日の詔勅が出された。
昭和天皇は自然科学者(生物学者、南方熊楠と意気投合した)であり、原子爆弾の意味も理解していたからこそ、戦争終結の判断ができたのだろう(昭和天皇は科学者の心性と現人神=神話的存在であるという自己矛盾を生きたわけで、大変だったろうと思う)。
それにしても、二度ひどい目に合わないと行動に移せないのが日本文化の「型」というようにも見える。一度で行動できるほど、日本人も日本社会も賢くはない。

さて、2011年に大震災があり、福島原発事故は当然ながら今も現在進行形で、終息などいつ可能なのか見当もつかない状態である(最低100年はかかるか)。
この大災害と大事故で、日本の世の中は少しは変わってましになるかと思ったが、数年で元に戻った。兆し程度で終わったように思う。
経済よりも生存の確保のほうが優先されるのは当然のはずなのに、そういう意識がったのは、数年もあっただろうか。
アベノミクス、under controlでオリンピック誘致等、経済優先にすぐ戻ってしまったし、ほとんどの人はそれを当然視しているように見える。

原発事故は、原爆と同じく、当事者にとっては重大な意味があり、その前と後では世界が違うほどの意味があるだろう。
だが、広島と福島だけでは世の中は動かなかった。
ということは、考えたくはないのだが「二度目」が必要なのだろうか。しかし原発事故が再び起こったら、この狭い日本には逃げ場はなく、致命的となるだろう。
つまり二度目があったら、日本自体がその時点で破滅しており、その時に気付いても何の行動もとれない。
しかし、ひょっとして、このコロナ禍は日本社会が変わる「二度目」の意味があるのではなかろうかと思うようになった。
というのは、現状でさえ、以下のようなことが起こるのは避けがたいと思われる。
これはhttp://my.shadowcity.jp/2020/04/post-18226.htmlに書き込んだ俺のコメント。


不景気云々という段階を過ぎたのは当然として、経済崩壊というよりは、経済を含む世の中のそのものの仕組みが変わるんではないかな。
というのは、普通の人のものの考え方自体が変わってくるように思うから。
会社に行かないと仕事ができない→行かなくても仕事はある程度できる。ときどきミーティングする場所があれば、こんな大きなオフィスはいらない。
てか、会社にそんなに依存しないほうが良いんじゃないか、とか、混んだ電車に二度と乗りたくないとか。
大学のキャンパス行かなくても授業は可能→通信制にオンラインコースがあれば十分じゃね、とか。
都市部に集中すると脆弱性が増すというか冗長性(プラスの意味で)がなくなるとか。
国政よりも、目の前に相手がいる地方政治のほうがまともだとか。
国際分業なんぞ危うすぎて、臍が茶を沸かすとか。
治療法のない流行り病には、貴賤富貴を問わず儚いことは砂の城と同じだとか。


どうも、これまでの世の中のようにはいかない雲行きである。
一度の災厄では目が覚めないが、今回の災厄でやっと目が覚めるのではないかと思う一方、犠牲が大きすぎるとも思う。
とりあえず個人的にはこの疫病を何とか生き延びて、世の中がどう変わるか(関与できるか)見ていきたい。

数もまた言霊となりえるか、もしくは及川俊哉に新作を期待する。

数詞というのは、他の単語などとは違って感情移入しにくいのではないか(なんとなく)。白髪三千丈等と言うときは、誇張表現として何らかの感情が込められているようにも思うが、それも限定的という印象がある。
数詞は他の品詞とは違い、強烈な意図=言霊は込めにくいように思うのだが、結論からいうと、数というか数字が言霊となることはよくある。
やはり「言霊の幸わう国」だからなのだろうか。しかし、場合によっては裏目に出ることもある。

コロナ禍について考えているが、国によって、というか指導者によって対策がずいぶん違う。
わりとうまく対策出来ているといわれるドイツと台湾の政権トップは、2人とももとは政治家ではなく学者である(蔡英文台湾総統は経済学、アンゲラ・メルケル・ドイツ首相は物理学)。
学者だから頭がいいというような話題ではなく、論理性を大事にして、それに従って行動しているということだろう。現実を予見なく直視し(観察)、筋道を立てて考え(仮説)、それを実行する(実験)。もしくは観察と関与というべきかもしれない。
新型コロナウイルの感染拡大というのは、基本的に自然科学的事象であって、その対策も自然科学に沿ったものを行うしかない。
未感染者の感染予防(衛生状態維持等)、感染者の割り出し(検査)、感染者の隔離と重症者への治療等。筋道(論理)を追いかけていけば、やるべきことは分かっている。それを実行するか否かだけの問題である。自然科学に忖度=人の思惑は通用しない。

日本はどうだろうか。
これまで検査は少なく、よって感染者の広まり(感染者数)は分からず、基本的な情報がないために根本的な対応ができない。
いかにも統計情報を操作する安倍政権らしい状態である。
というのは、これまでの経済政策を見るとこんな発想のように思える。
株価が高い→景気が良い。ならば株価を維持しよう→株価が高い=景気が良い(はずである。ただし実体経済のことはあえて無視)。
同様に、コロナ発症者が少ない=うまく抑え込んでいるということであれば、コロナ検査をしなければ、発症者は増えない→感染爆発していないはず(ただし実態は知らん)。
株価が一定の値であれば、経済が良いとするように、検査のうえで判明した発症者数が少なければそれで良いとするところは、同種の発想である。
つまり、見かけの数で現実を糊塗しているのであるが、日本(というか安倍政権)の場合、ある種の数が現実を凌駕するほどの意味を持たされているのだろう。

紀貫之が古今集仮名序の冒頭で、こう言っている。

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

これは歌に込められた言霊の力を語っているのであるが、現代の経済状態や自然科学的事象であるコロナウイルス(≒目に見えぬ鬼神)には、残念ながら通用しないようだ。
しかし、先述したある種の数(しかも願望が込められている)が現実や未来を左右すると考えるのは、やはり言霊思想の一変種と思わざるを得ない。
「数値」といえば、ある客観性を持った基準で計測された値であり、自然科学に裏打ちされているように思う。
しかし「数字」といえばあくまでも文字であって、言葉→言霊から逃れられぬのかもしれぬ。

さて、ここからが本題。
及川俊哉という詩人がいる。https://syunya-oikawa.com/
初めて知ったのは朝日新聞夕刊(2019年3月6日)に掲載された祝詞(のりと)文体の「瀬織津姫大神に冀ふ詞」(せおりつひめのおおかみにこひねがうことば)という詩で、福島原発事故の終息を乞い願うことばであった。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13921782.html
感銘を受けたので詩集も買った。
他にも、原発を神と見立てて、事故の終息を奏上する祝詞文体の詩がいくつかあって、かなりのショックと感動を受けた。
さればこそ、及川俊哉にはコロナ調伏の詩(祝詞)を作ってもらいたい。

先ほど、目に見えぬ鬼神であるコロナウイルスには、言霊は効かないと書いた。
コロナウイルスの感染自体は、自然科学的事象である。
しかし、個人の感染自体は、運命の問題に近い。いくら感染予防をしていても、罹患するときはあるだろう。逆に、無神経にマスクもせずに咳をまき散らすような輩が、何事もなくやり過ごすこともあるだろう。
もちろん感染予防は可能な限り行うとして、しかし人間は自然科学だけで生きているわけではないので、なにかが必要だろう。
それが言霊であっても良いのではないかと思っている。

ところで祝詞とは何であろうか。
『平成新版 祝詞事典』(戎光祥出版)には、以下のようにある。

 今日の神社祭祀における祝詞は、神人合一の最高潮の場において「語る儀礼」として、奉仕者である神職が、祭神に祭祀の意義と目的とを奏上する言葉(文章)であるが、古くは祭祀の場に参集した人々に対して宣り下された神語(神々の言葉)でもあった。(P.12)

古くは神からの言葉を神職が預かる(つまり預言 ※予言じゃないよ)ものであったが、今は神に対してこいねがう(希う、冀う)、人から神にむけての言葉である。つまり祈りの言葉である。
郷里の相馬市・中村神社にこういう看板があるので、書き写しておいた。

相馬中村神社
 御祭神天上界第一位の神
天之御中大御神

 自分の願望と宿命とを
心の中でつなぐものが
祈りである

 祈りとは宿命の限界の中で
新しい運命を呼びおこし
作り出すものである

 そして祈ることで人間は
自分の力の及ばぬ大きなものを
神仏に依存することによって
自分の及ぶ限りの実践に
踏み切ることができる

 ある意味では
実行の一番深いものが
祈りである

誰がお書きになったのかは分からないが、なんだか心に残っていた言葉であった。
これによれば、祈りとは、現実の限界のなかで、現実を超えようとする実践であり実行である。 
とすれば、祝詞も実践であり実行なのかもしれない。

今日もまた、津々浦々の神社仏閣で疫病調伏の修祓の儀式や加持祈祷やらが行われていると思う。神と人とをつなぐチャンネルという立場である以上、禁裏においてもそうであろう。
それだけでも十分なのであろうが、現状を見ると足りないような気がする。
いや、そうではないか。専門の人ではなく、普通の人の祈りの言葉が欲しいということか。
先に挙げた『祝詞事典』にはこうある。

 神社は、神道を具体的に表現した形式である。その神社を構成する基本的な要素は、<祭神>と<崇敬集団(氏子・崇敬者)>と<祭場>であり、祭神と崇敬集団との神人の交流として<祭祀(祭り)>が奉仕される。(p.10)

その祭祀の一部として祝詞があるのだが、上述したように崇敬集団が基本である。祈り自体は、今回は目の前の小さな集団からはじまり世の中全般への、神への働きかけを奏上しているのであろう。
しかし、崇敬集団でなくても祈りの言葉が欲しい。
そのときに、神職ではなく詩人である及川俊哉が思い浮かんだ。なんだか論理が飛躍しているのだが、彼に神への言葉を語ってもらいたい。それは祝詞の文体を持ちながらも、現代のテーマを扱うものだろう。
神なき現代(俺自身はなんらかの存在はあるように、またあってほしいと思っているのだが)で、それでも祈りを奏上するのであれば、神職とは別のかたちで言霊を扱う詩人の務めなのではないかと思っている。
まあ、我ながら何を言っているのだとは思うのだが、偽りない心でもある。
世にふたたび平安が訪れることを願うばかりだ。
しかし、これまでとは違う世の中になるだろうな。

「AI美空ひばり」とはなにか。

NHKとヤマハがAIにより故美空ひばりを「AI美空ひばり」として映像化した。当然だが、実体はない(というか色即是空というか空即是色というか)。
これを冒涜という人もいるし、ファンが涙したのだから良いのではないか、という人もいる。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14403750.html

NHKで特集した創作過程も見たし、紅白歌合戦でも見た。
技術的な本質は、初音ミク的VOCAOID技術に、故人のニュアンスをどう反映させていくか、という挑戦に見えた。
https://www.yamaha.com/ja/about/ai/vocaloid_ai/


ところで、VOCAOID・ボーカロイドとは何であろうか。
wikipedeiaに「メロディーと歌詞を入力することでサンプリングされた人の声を元にした歌声を合成することができる」とある。
つまり人の声を扱えるシンセサイザーであり、最近できた「楽器」である。
このへんがAIひばりに対する意見が分かれるポイントではないだろうか。
つまり、美空ひばりの偉大さを思う人は、その存在が、AIひばりという単なる楽器化されて「演奏される→道具化される」のが許せないのだろう。
カント先生は、人格は道具化してはいけないと言っていたような(すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない)。
https://benesse.jp/teikitest/kou/social/ethics/k00499.html

楽器、道具(どちらも英語ではinstrument)とは、使う主体が別にいて、その主体の使い方次第でどうにでもなる。
ということは、AIひばりは歌う主体ではなく(主体は秋元康とかNHKとか)、上手に演奏された楽器・道具に過ぎない。
さらにいえばAIは、ニュアンスを上手につける道具というくらいの位置づけに思える。
偉大なる歌手美空ひばりを単なる楽器化=道具化していいのか、というのが問題の本質ではないかと思う。

俺自身はといえば、素朴・単純な楽器ほど面白く、奥深いと感じている。
同じギター(例えばギブソンJ-45とか)でも、俺が弾くのと、ジミ・ヘンドリックスが弾くのでは、出てくる音楽は天地ほどの差があるだろう(というか生と死くらい違うか)。

AIひばりに代表されるような、こういう高度すぎる道具(おもちゃともいえる)は、高度すぎるがゆえに案外早く厭きるし、つまらないのではないかという気がしている。
もちろん、ある種の技術として定着はするだろうが。

2020年3月11日記事

昨夜は、久しぶりに半徹夜となる。昼間会議が続いたため。
明け方に帰宅し、仮眠。昼過ぎに家を出て、浅草に向かう。
なぜか浅草寺に行きたい気持ちになった。

いつものように神谷バーに入る。やはりコロナウイルスのせいか、店内はだいぶ空いてる。
例によってビール付きランチに電気ブランを付けたが、食後にコーヒーも飲んだ。
客が少ないので、たいした足しにもならんだろうが、いつもより一品多く頼んでみた。
店内には子連れの母、祖母らしき一組。幼児も親のまねをしてジュースで乾杯。
それを見て微笑むウェイトレス、ウェイター。やはりここは居心地がいい。

酔いがさめたころ浅草寺に向かう。参道は、いつもほどではないが、人出はあり。
30年前、初めて浅草に来た時には、この程度の混み具合だったような記憶がある。
まずはお参りする。
午後2時46分、浅草寺では、特別なことはとくになく、一人黙祷する。
2時48分ごろに、にわか雨。一種の天人感応としての涙雨か。

浅草から上野まで歩く。
上野駅の中央改札口を漠然と眺める。近々常磐線が双葉郡も開通し、仙台まで全線開通するのだが、それでいいのかというふうに考えている。
実家の相馬市に行くには、常磐線で乗り換えなしで行くのがいちばん楽なのだが、原発事故は何も解決していないのに、そのすぐそばを電車で行くのは、いい気がしない。

上野から秋葉原まで近いことに思いいたり、さらに歩く。
千石電商にて、テレキャスターフロントピックアップ固定のネジとバネのセットを購入。
そのまま歩いて帰宅した。10キロ程度か?


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Andy Gillが亡くなった。

あまり音楽関係のニュースを見たりすることがなかったので、今の今まで知らなかったが、Gang of Fourのギタリスト、Andy Gillが2月1日に亡くなっていた。
昔、Gang of Fourの1stが国内版が出たときに、さっそく買って聞きまくっていたことを思い出す。
なんでも、あれだけの名盤にもかかわらず、3000枚しか売れなかったとか。

現代の音楽史に残る一人だった。
残念です。

Gang of Four - "Damaged Goods" (Live on Rockpalast, 1983)

ミヤマ商会、さようなら

新宿に散歩に出たら、2月20日付で、ミヤマ商会新宿店が閉店していた。
よく読むと大宮店も閉店で、商売自体たたんだらしい。寂しいかぎりです。
IMG_20200222_164521.jpg

ちなみに池袋店は2011年に閉店していた。
lhttp://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-596.html


また落とし物をしてしまった話(@新宿、Walkman A16)

午後から新宿に出かけて、ふと上着のポケットに入れていたはずのウォークマンに手をのばしたら、見つからなかった。
またやったかと思って、他のポケットをまさぐったがやはりなかった。
家から新宿まで歩いて出掛けて、しかも、あちこちふらついたから、どこで落としたか見当もつかない。
明日、それらしいお店など電話で聞いてみようと思うが、けっこう電話を掛ける所が多くなりそうで、ちょっと鬱である。
落としたのは、ここ4,5年使っていたかなり型遅れのWalkman A16というやつで、黒の外装は使い古したカメラのように角は剥げ、ディスプレイのガラスは傷だらけなので、金銭的な価値はほとんどないであろう(そもそもアウトレット品だった)が、愛着も、音楽データもあり、些かショックである。

ショックの理由というのは二つあって、一つは、ここ数年、冬場にちょっとしたものを落としている。
買ったばかりの手袋とか(すぐ買いなおしたが)。
で、買いなおしたその手袋をまた落としたり(これは近所の家の塀に引っ掛けてあったので、手元に戻った)。
冬場は、コートとかマフラーとか、いろいろ見に着けるものが多くて、取り紛れてしまうのかもしれない。ポケットの数が多くなると混乱する。
以前はそういうことはなかったのだが、これも老化現象か。

このへんはしょうがないとは思うが、二つ目は、どうも落とし物をしそうなときには、うっすらと予感があって、でもやっぱり落としてしまうのだ。
先日は、ノートにはさんだ赤ペンが、いかにも落ちそうだと思いながら、やっぱり落とし、しかしすぐに気づいて拾ったが、またしても落としてしまった。
再度拾った時に、ノートにはさまずにきちんとしまえば良かったのだが、なぜか、大丈夫だろうと思って、そうしなかった。
今日のWalkmanも、上着のポケットの入れたときに、なにかみょうな予感があったという記憶はあって、でもそのまま出かけて、案の定なくしてしまった。
日中暑くなって、上着を脱いだときに、ちょっと気を付けようと思ったりもしたのだが、このときもなぜか大丈夫だろうと思ってしまったわけだ。
128GのマイクロSDカードには、ライトニン・ホプキンスやカンやビートルズやジミ・ヘンドリックスのbootlegやケイト・ブッシュやら、音楽好きならそれなりに楽しめそうな音楽データが入っているので、落とした人が楽しんでくれたらそれでも良いとは思うが、見かけがボロボロなので、そのまま捨てられてしまいそうに思う。

同時に、こんなことも考えた。
ハードウエア的には、まだ使用できるが金銭的にはほとんど無価値、おそらく普通の人は買い替えるだろうという品物であったので、あきらめもつかぬではない。
中身についてはどうか。けっきょく音楽データはすべて元のデータが別にあるので、それほど困らない(が、どんな曲を入れていたかは、うっすらとした記憶しかないので、元の中身を復元するのは難しい)。
これはデジタルデータの強みで、オリジナルというものがないので、というか、既にデータ化された時点で、コピーもオリジナルも区別はないので、データがどこかにあれば復旧はできる。
例えば、これが誰かから借りたアナログのLPだったりしたら、取り返しがつかない気がする(LP自体に思い入れがあったら、代わりのLPを買ってきても済まないだろう)。
LPというのは市販品であるが、万一、手作りの品や一点物だったりしたら、目も当てられない。

ということは、音楽データに限らす、デジタルデータ化可能なものは、手元のSSDやらメモリーやらにデータをいれておくよりは、ネットワーク上にデータがあれば、ハードウエア自体は交換可能なので、今日のように落とし物をしてもまだ傷は浅い(だろう)。
また、ネット上にデータをおけば、ほぼ永遠?に保全されるのかもしれない。
というのは、ネット上の(サーバ)のデータは、サーバーのバックアップがあるはずなので、手元に置いておくよりはより壊れにくく、失われにくいだろう。
この特性がある故に、リベンジポルノなどは問題が厄介になるという面もある。

別の言い方をすれば、アナログなものがオリジナルとしてある場合、デジタルデータ化という一種の破壊と再構築のプロセスを経れば、デジタルであることの利便性を享受できるが、しかしそれはおそらくすでにオリジナルとは別物であろう。
ただし、実用の際には、データ化の前と同じく、たいていは前以上に扱いやすくなるので、むしろ問題はないが、それを良しとするかどうかは、人によって違う(それとも世代か?)。

そうなるとgoogleドライブ等にデータを載せておくことを思い浮かべるが、どうも個人の情報を勝手にみられているようで、嫌な気がする。もちろん、俺のような砂粒的個人の情報は無意味であるが、ある場合には勝手にビックデータ等と取りまとめられるのも、違和感がある。ビッグデータの収集とドライブ内データは切り分けられているはずなのであるが、どうも信用できない。
まあ時代についていけないというのはこういうことだな。

最近、サブスクリプションという言葉があって、定額制のサービスが流行ってきたようだ。わざわざ所有せずとも、常時それが使えれば、問題ないといえば言える。
考えてみれば、所有するといっても、人生の時間には限りがあるので、じつは一時所有に過ぎない。
手元においても数十年も使用に耐えるようなものはほとんどなくて、それだったら、買い取ってまで所有する必要があるであろうか(俺にはあるけど)。

さらにいえば、そもそもものに執着するのが良くない。愛別離苦というのは、基本的には人間関係に言うのであろうが、愛着のあるものには、そんな言葉を使いたくなる(けっこう、傷深いんだろうね、じつは)。
先日の台風で、郷里もだいぶ被害を受けた。
亡くなった友人の母の家は川沿いで、おそらく取るものも取り敢えず、避難したであろうから、友人ゆかりのものは、流されてしまったのかもしれない。
そう思うと、帰省したいという気持ちも薄らぐ。
ものに注目するから、そう思うので、身から剥がせないもの(こと?)こそ大事にすべきではないか。
判断力、語学力、知性、技量、体力等は、身一つになっても残るものだ(なんだか大袈裟になってきたな)。
であれば修練あるのみ、といっても、家に帰って本を読んでは考え、ギターの練習をするくらいしかないが。
好きな音楽なら、頭の中で再現出来ればそれでいいではないか。だいたい、常時耳鳴りしてるんだし。

こんなことを、新宿駅地下のベルクでホットドッグブランチ(ビール付き)を食べながら考えて、自らを慰めておりました。
さてどうしよう。

サインが欲しくなる理由

どういうわけか、何人かの著名な方のサインを持っている。
著名といっても、俺にとっての、という意味で、多くの人にとってはあまり意味はないかもしれぬ。
桑原甲子雄、荒木経惟、遠藤賢司……、田中長徳なんて人のもある。六田知弘さんのもあったな。
最近ではスピッツのサインが増えた。

ふと考えた。なぜサインが欲しいと思うのだろうか。
ファンだから、と言えばそれまでだが、熱烈なファンであってもサインは別にいらないという人も多かろう。

どうも、いろいろ考えると、ベンヤミンに行き着くような気がする。
先ほど名を挙げた人たちは、基本的に複製芸術の世界で生きている(いた)。というか、桑原やアラーキーのオリジナル・プリントには値段からして、とても手が届かない。エンケンはさいわいにも東京にいたのでライブを見ることができた。そうでなければCDで聞くしかなかった。
写真集もしくはCD(LP)という複製芸術のかたちで、彼らの作品を十分に堪能しているわけだが、やはりそれだけでは寂しく思うのだろう。
となると、オリジナルだけがもつはずのアウラ(そのときに、その場だけに存在する)に準ずるもの・つながるものが欲しくなるのだろうか。

複製芸術であろうとも、例えば楽譜から演奏するように、自分の中で鑑賞・観応というかたちで再創造できることは可能であると考えている。なかなか困難なことではあるが。
しかし、それだけでは足りんのでしょうな。
だから、ライブに行ったり、写真展に行ったりして、そこにしかないもの・ことを体験しようとする。

作家が自らの手で書いたサインというものは、間接的に作家に近づけるような気がするものだ。
そういうかたちで、複製芸術のなかに唯一性を取り戻そうとしているのだろうか。
そういえば、昨年、牛腸茂雄のネガから友人の三浦和人氏(だったかな?)が焼いたプリントを買った。
大昔に四谷三丁目のMoleで売っていたもので、たしかに写真の裏にMoleの名前が残っている。牛腸のオリジナル・プリントには手が出ないが、牛腸が直接手を触れたネガから焼かれたプリントなら買えなくはない。

そのプリントをそれほど見返したりしたりはしていないが、自分の中に欠けている何かを確実に補ってくれているような気がする。
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