eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-10

運慶展

しばらく前から行こうと思っていたが、腰を悪くしたり、親知らず(しかも下)を抜いたりで、気持ちはあれど体が追い付かず、とはいえなんとか行ってみた。
図版の撮影を六田知弘さんが行ったというので、図録を買うのも楽しみである。
夜間開館の日を選んで、17時過ぎに会場に入ったが、なかなかの込み具合。
どうも、今の自分からすると、人間離れした諸神諸仏像(魁偉すぎて怪異に近い気もする)は、なんだかアニメのフィギュア―のようにも見えてしまって、それよりも無著・世親像や八大童子の矜羯羅童子(こんがらどうじ)のような、たしかにこの人は居たのではないか、と思わせるような実在感のあるものに心がひかれた。

ところで、今道友信先生の本で、心破れたときに鎌倉高徳院に行って大仏様の前に立ったら、ある地点で大仏様と視線が合う場所があったというような話があった。
それを思い出して、無著菩薩像の前に立ってみた。
ちなみに無著像は、そのコーナーに入る前から、そこにいるのが分かるくらいの存在感がある。
無著像は正面から見ると多少左を向いている。そのお顔の正面くらいに立ち、視線の行先を探りながら、多少前後に動いてみると、この場所だろうかという地点があるように思えた。
その人の身長によっても違うだろうし、視線の方向のとらえ方によっても違いはあるだろうが、俺の場合は上に書いたような地点があった。
そこに立って、お顔を見ると(仰ぐと)、無著という人(ではなくて菩薩か)のまなざしに耐えられないような気がして、やはり目をそらしてしまう。そんなことを何度か繰り返しているうちに、こちらも慣れてきてじっと対面できるようになってくる。
そうなると今度は「お前はこれからどうしたいのだ」と問われているような気がしてくる。若干、心が苦しくなってくる。
少し右にずれると、今度は口元に少し笑みがあるようにも見えてくる。
こういうふうにしていると、いくら時間があっても足りない。
無著像に対面したと思ったら、自己に向き合うことになってしまったという話でした。
ちなみに世親像とはそこまで対面できなかった。体力・気力不足か。

重源上人も良かったです。
神鹿、子犬像はうちにほしい。
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PCのコントールパネルが不調の場合

Windows10でも稀によくあるようだが、PCを管理するコントロールパネルを開こうとしても開かなかったり、開いてもフリーズしたり、ということがある。
仕事場では2社のPCを中心に使っているが、なんとなく一方の会社のノートPCのほうが発生率が高いような気がする。ただし、購入時期の違いによる単なる経年劣化の差なのかもしれない。

コントロールパネルにはシステムのバックアップを作るような重要な機能があるので、メンテナンスをする際に本当に困る。
いろいろな対応策が公開されているが、どうもうまくいかない。
根本的には再インストールがいいのだが、一仕事になる。

で、俺が考えた安直な一時しのぎの方策。
まず、別のPCのコントロールパネルを開き、必要な機能のアイコンからショートカットを作成する。
次にそれをコピーして、問題のPCのデスクトップなどに置く。
そのショートカットをクリックすると、コントロールパネル全体は開かずに、必要な機能(例えば、システムとか管理ツール等)は開くので、作業可能な状態になる。
例えば、以前のシステムに復元したいときには、とりあえずこの方法で何とかなると思う。
どなたかの一助になれば幸いです。

池田学を見にいったら腰が抜けた。

というか、正確にはぎっくり腰になったのだが。

最近は、品川のキヤノンギャラリー「篠山紀信 家」を見に行ったり、なかなか忙しい。
それにしても品川はずいぶん変わったな。昔はだだっ広いだけのうら寂しい貨物基地のような印象があるが、それでも今の港南口の人工的なビル街に比べたらましだったな。

それはさておき、高島屋の池田学展に行った。
だいぶ混んでいるらしいので、17時に会場入り。そのあとは国立博物館の運慶展に行くつもりであった(が、やっぱり無理だった)。
入るとかなりの混雑。細密なので、みんな画面を凝視しているので時間がかかる。
おれは近づいたり離れたりして見たいのであるが、あまりの混雑でそれもなかなかできなかった。空いてきたのは18時半以降。それまでに、めぼしい作品には目をつけておいた。
いくつも心にひっかかる作品があったが、2011年の震災前に描かれた「予兆」では、どうしたものか予言かのように津波に飲み込まれていく人の営みが細密に描かれていた。
よく見ると、南無阿弥陀仏と唱えながら空を飛ぶ仏たちがいたり、十字架上のキリストがいたり、街並みが大波に巻き込まれていてどうしても2011年の震災を思い起こしてしまう。
壊れた旅客機が繰り返し出てきているが、911の残像だろうか。
また「誕生」(これは写真撮影OKとされていた)を見ていると、作者は死と崩壊の果てには、それでも花が咲く―せめて咲かせたい(なんかNHKの歌みたいだが)ということのようだが、花の根元には死があるのだな、などと坂口安吾のようなことも思ったりした。
というような話は、実際に作品を見て、それぞれが自分なりに感じとればいいのであって、本題?はここからだ。

何しろ池田作品は極細のペンで微細に描いているので、全体も見たいがデティールも見たい。
「予兆」などは、左下側の波が起こりつつあるところかじっくり見ていると、何十分かかるかわからない。
しかもその間、中腰だったり、腰をかがめたままである。かなりの混雑だから隣の人に触れないように体もねじったりしている。
そんな風に2時間以上、絵を見ていた。
会場を出たのは19時30分になりそうだったから、上野に移動して運慶展に行っても1時間もないので、こちらはあきらめた。

さて、帰宅して、ちょっと腰を下ろして、体をひねったら、キクっという腰の感触があった。
以前ぎっくり腰をやった時と同じである。さっそく初期対応をして(湿布を貼って)、体を楽にして、しばらく休んだ。
どうも中途半端な姿勢で体を動かさないでいたのが良くなかったのではないか。
池田学の作品は、そのくらい心身に影響を及ぼす力は確かにあると思う。
混雑していない会場で、体をのばしながらゆっくり見たいものだ。
それにしても会期が短すぎるんじゃないか。

続猫々

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猫々

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つれづれ

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体育会系が時代遅れになりつつある?わけ

先日、日経関連のwebサイトを見ていたら、会社員向けの人生アドバイスのような記事があった(こういう記事はよく見かける)。
そこでは、自他ともに認める体育会系ということで頑張ってきた後輩がいて、最近元気がない。
先輩にあたる筆者が、「どうしたんだ」と飲みに誘ったら、これまでの仕事のやり方(記事からすると根性主義っぽい)が通用しなくなって、行き詰まりを感じている、とかなんとかそういう記事であった。
→この記事でした。体育会OB社員を襲う早すぎる「定年」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/032500025/060200030/
本当にそんなことがあったのかはしらないが、記事として需要はあるような、つまりある程度、現実としてあり得る話なのだろう。

さて、体育会系の美点はいろいろある。だから就職などでも有利だったという(俺には全く関係なかったが)。
ただ、どうもかつてほど持てはやされていないらしい。なぜか。
体育会系は、スポーツに打ち込んでいる(当たり前)。
スポーツにはルールがある(当然)。
そのルールのなかで最大限努力する(立派です)。

ところが、そのルールにあたるものが社会に確立していない状況になってきた、ということではなかろうか。
例えば、ソニーのウオークマン。音楽を身に着けるという発想と、その枠組みを作ったのは素晴らしい。
しかし、appleはiPodでルールを変えてしまった。
つまり、持ち運ぶのだから音質は落ちてもよい(mp3等)と割り切れば、いろいろな利点が出てくる。
曲単価が安くなる。通信しやすい。小さい筐体にたくさんの曲データが入る。
いわば当初のルールを変えて、違う競技を始めてしまったようなもののように思う。
しかしソニーはオーディオメーカーでもあったので、自ら音質を落とす発想はためらいがあったか?

こういったことが重なると、ルールを大事にするよりは、ルールの逸脱を考えるような発想、態度が求められる。
枠内での努力ではなく、枠自体を再検討する能力(それも頻繁に)。
そうなると、枠内の努力を重視するタイプの発想はやはり行き詰るだろうか。
まじめな人が多いだろうと思うので、気の毒に感じる。
枠にもいろいろあって、仕事関係だけでも日々の人間関係の枠、会社の枠、業務の枠等、自らを取り巻くフレームは重層的になっている。
そのなかで体育会っぽい先輩後輩関係が暑苦しくかんじられるのかもしれない。

俺自身はほんとうはどうでもいいと思っているのだが、かつてF1で日本製マシンが好成績をあげるたびに、また、オリンピックで日本選手が好成績をあげるたびにレギュレーションが変更されたことを思い出す。
いわゆる体育会的なものごとは好きではないが、時代や環境にまじめに向き合ってきた人が割を食うのは、あまりいい気がしない。

2011年に東日本で小学3年生だった人たち

先日、若い友人と話す機会かあった。
彼は東日本大震災の被災地で学習塾の仕事をしているが、数年前に会ったとき、既に「ブラック部活」の話をしていた。
それほど部活で実績もない学校なのに強豪校並みの練習時間を費やし、そのために受験勉強が疎かになってしまう。そのしわ寄せは、スポーツ特待生になるわけでもない、ごく普通の、部活に参加している生徒の進路に現れてくる(もちろん部活に打ち込むことの様々な意義は承知しているが)。
やはり現場を見ているのでマスコミよりも早く実感していたそうだ。

今回会ったときに聞いた話では、被災地で見受けられる、ある傾向のこといっていた。
現在、受験期である中学3年生くらいの生徒は、2011年に小学3年生であった。この時期は、避難生活などで落ち着かなかったためか、根本的な学習態度が身についていない子供が目立つという(全員ではない)。
もちろんどの時代でも学業不振の子供はいるのであるが、今回はそれ以前の状態で、大袈裟にいえば「まず教科書を開き、手に鉛筆を持ちましょう」というところから始めなければならないそうだ。
小学3、4年生はギャングエイジとも呼ばれ、好奇心が発達し、自我が芽生えて反抗心が出たり、集団行動をとり始めたりするような大事な節目の時期である。
この時期に、落ち着いた生活が送れなかったり、成長に必要な通過点を体験できなかったためではないだろうか、というのが友人の見立てであった。
これがどの程度、確からしさのある話なのか、当事者ではない俺にはわかりかねるが、然もありなんと思われる。
これは、東日本の場合、2011年に節目の年齢を迎えていた様々な世代(小学3,4年生以外)にも、当てはまることではなかろうか、とも心配している。

最近見に行ったもの

1.コスモスとは良いものである。
東京ステーションギャラリーの「没後40年 幻の画家 不染鉄展」に行ってきた。
lNHK日曜美術館で紹介していたような記憶があって、なんだか印象に残るものがあり、新宿で安売りチケットを見つけたのもあって見たのだが、予想以上に良いものだった。
印象に残るものが多かったが、そのなかからいくつか挙げると、
・秋色山村
山のふもとの集落を描いたものだが、中心にある銀杏?の巨木に自然と目が向くようになっている。というかこれは曼荼羅ではないか。
中央の銀杏は世界の中心であり、その木は寺の境内にあり、その前景には家々、その間を通って、画面手前から道が伸びている。その道をたどると銀杏の木のある寺に行きつく。その道を左側に進むと山に入っていく。遠景には山並みがあり、全体として円形の構図になっている。木々、家々、山々がそれぞれ仏のようであり、その中心に世界樹である銀杏がある。この銀杏は、あとで出てくる、幹のところにお地蔵さんがある銀杏と同じものではなかろうか。大きな複製画がほしい。
「奈良秋景」にも印象が似ているようにも思う。
・山海図絵
代表作にして今回の目玉だろうか。かなり大きな作品(186×210)で、真ん中に富士山が鎮座し、手前には静岡県の海と町、山野が広がり、富士山の後ろには雪景色があって、どうやらそれは日本海のようである。
これも一種の曼陀羅のようであり、中心の仏の周りに宇宙が広がっている。というか富士山を中心とした宇宙が描かれているという実感がある。
展覧会の副題に「世界(コスモス)を描いた。」とあるが、これはその代表ではなかろうか。
コスモスとはカオスと対になった言葉で、大雑把に説明すると、人が暮らしていくことができる親和的な世界のこと。その反対がカオスで、だから日本語では混沌などと言うのだろう。
人が暮らしていけるということは、ある種の調和があり、人を受け入れる環境があり、そして、そこにいると心地よいだろう。だからコスモスとは単に宇宙、世界などと言うだけでは足りなくて、基本的に人にとって良いものである。それがこの絵にはある。
なにしろ大きい絵なので、1度見ただけでは足りない。
・廃船
不染鉄の作品には、家並みがよく出てくるが、ほとんどの場合、あたたかさや人の営みが感じられる。しかし、この絵の場合は、荒廃した家並みが前景にあり、後ろには巨大は廃船がある。
昭和44年(9174)の作品であり、非常に暗い画面なのは世相を反映したものなのだろう。それ以上に思うのは「廃船=敗戦」という意味ではなかろうか。では何に負けたのか。この巨大な船を見ると、なぜか遠藤賢司の「プンプンプン」を思い出した。この歌は田中角栄が列島改造論で日本を開発しつくそうしているのを歌っていて、詩に出てくる「鉄仮面」とは角栄に代表される金儲けと自分の都合しか考えない亡者たちをさしている。
https://mojim.com/twy113358x1x10.htm
不染の他の作品では調和的世界(コスモス)が描かれているが、この作品では、そのコスモスが破壊されようとしている(鉄仮面たちへの敗戦)ことを嘆いているように思えた。

ほかにたくさん良いものがあるのだが、俺の手ではとても書ききれないので、ここまでとする。夏休み中にもう一度行って来よう。

2.荒木経惟写真展2つ
・恵比寿・東京写真美術館「荒木経惟 センチメンタルな 旅 1971– 2017–」
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これは良い。
「センチメンタルな旅」は、最近のプリントだろうか。復刻版「センチメンタルな旅」では、よく見えなかったところまで、きちんと見えて、そうすると陽子夫人の将来に思いがいってしまい、さらにものがなしい気持ちになってくる。
たかが組み写真で、しかも他人の新婚旅行なのに、なぜか一緒にセンチメンタルな旅をしていることに気付く。
「東京は秋」「センチメンタルな旅・冬の旅」「 空景/近景」「愛しのチロ」等繰り返し見た作品が多くて、作品数は多くはないが、とにかくこれは見たほうが良い。

・ 東京オペラシティ「写狂老人A」
これは好きな人だけ行けばいいんじゃないか。その割に高い。
近作中心なのは、アラーキーが元気なのが分かって、それは良いのだが、なんとなくとりとめがない。
見ものは電通時代に作った「八百屋のおじさん」のスクラップブック(複製)を手にとってみられること。
ちょっと思い出したが、大昔にここでヴォルフガング・ティルマンス展を見て微妙な気持ちになった。このときは写真自体は良いのだが、変な違和感があって、ひょっとして、ここって学芸員が勘違いしているんじゃないかという気もする。
まあ、門外漢の戯言ということで。
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暑いですな。

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